「創造的想像力」

 以前、潜在的なものは、全て抑圧されたものである、と書いたと思う。私は存在論的な領野に、精神分析における抑圧を敷衍して使いたいのだ。スーフィズムでは神の慈愛の息吹が、潜在的なものを顕現する働きを持つ。世界の可能性、可能態として存在しているものを創造する時、それは世界に抑圧されていた存在を呼び起こすことなのだが、そこには慈愛が必要なのである。私たちが今必要としている存在は、きっと今まで無視され、忘却されてきた存在である。その存在は阿頼耶識の中で、声なき声を発している。或る時は神の存在が必要とされ、また或る時は神の死が必要とされ、また或る時は実存が必要とされ、或る時は相対的な見方が必要となる。哲学者の仕事はまさにこの営為なのだろう。その時に必要な言葉を、その時に必要な観念を、阿頼耶識から発せられる声に耳を澄ませ、慈愛を込めて息を吹きかける。するとその風により阿頼耶識の闇は祓われ、呼んでいた存在を明るみに出す。

 宇宙の始まりから全ては生まれたなら、宇宙の始まりにはそこから全てが始まる内包がある。つまりそこには全ての記憶がある。それは未だ決められていない記憶である。アカシックレコードはこの意味で捉える必要がある。宇宙の始まりとは究極の抑圧であり、ビッグバンというのも、その抑圧の爆発だと考えて良いだろう。

 人の創造的な行為は、アカシックレコードに未だ抑圧されている存在を、魂を通じてそこに入り込み、優しさによってすくい出し、それを昇華させることで成り立っている。ここには存在論的なカタルシスがある。創造的な行為というのは、とても優しいものである。

 いわゆるエモーショナルなものが、郷愁的なものとセットなのは、抑圧されていたものはアカシックレコードにあるからで、それは実は潜在的に過去にあるからである。阿頼耶識の中で声を発している存在の、声の正体は情動に他ならない。そしてその抑圧されていた情動を蘇らせることが、郷愁的で、いわゆるエモいという感覚を惹き起こすのである。
この潜在的なものに目を向けるのは、非常に有意義である。近代から発展した自然科学によって、顕現するものばかりに目を向けられている昨今では、潜在的なものそのものが抑圧されていると言って良い。潜在的なものを抑圧することの弊害については、繰り返し述べてきたので、ここでは省略しようと思う。

 ところで、アンリ・コルバンによると存在者と神は、郷愁と熱望の関係を持っている。潜在的なもの(神)は、顕現せんと熱望し、顕現したものはいつでも潜在的なものへの郷愁を持っている。私はこれを意味の原理だと考えている。向陽性植物が太陽に向かっていること、これをアンリ・コルバンは向陽性植物の祈りだとしている。志向性というものが、意味においても有り得るなら、向陽性植物の意味は、太陽に向かうことで成り立っているのである。もちろん、物理的に太陽に向かっているという事態もあるのだが、その物理的な現象と照応するように意味は存在している。

 私の考えでは郷愁と熱望というのは、『心の研究』で書いた愛と意志なのである。現れんとする意志と、その意志に惹かれる愛。意味志向性なるものがあるとして、或る存在が或る意味を持つのは、まさにその存在がその意味に向かい、そしてその意味に惹かれているという事態なのである。先に出した向陽性植物と太陽の例は、あくまで単純化した例で、実際は諸々の事物と関係して、或る事物は存在しているので、その関係している事物に意味が向かい、関係している事物の意味に惹かれ、意味連関が出来、或る存在の意味が成り立っている。意味が呼応しているという事態なのである。

 まさに意味は呼応して存在しているのだが、潜在的な意味もあり、その潜在的な意味が現れんと熱望する、その声に呼応することで、創造的想像力は働く。もう分かる通り、創造的想像力とは慈愛に満ちている。とても優しい力だ。私は存在論的にも、この創造的想像力というのは意義を持つと思うのだが、倫理的な領域でも、この創造的想像力というのは大変な意義を持つと確信している。この世の悪が、この世の不幸から起こるなら、創造的想像力こそこの世を幸福にするのだから。抑圧されたものがストレスとなるなら、この抑圧されたものに耳を澄まし、そこに慈愛の息吹を吹きかけ、明るみに出すことで、抑圧された心を救うことが出来る。悪を為す人というのは、抑圧され続け、爆発するのだから、私たちは出来る限り、抑圧された声を聴く必要がある。

 「声なき声を聴くこと」これこそ倫理の第一原理である。
美的な領域においても、創造的想像力が意義を持つのは、言うまでもないだろう。

 この創造的想像力に根拠を与えるのは、交感や、感応、直感といった類のものだ。現代では意識ばかりに目を向けられているから、人と人との心は交わらないという観念は当然になっている。確かに意識というのは常に限定的であって、その原理から言って、個々の意識は閉じられていると言って良い。しかし潜在意識はどうだろう。阿頼耶識はどうだろう。井筒も西田も、意識には個人的な領域を超えている場所があると言う。

 私が繰り返し述べてきた直感というのも、潜在意識や阿頼耶識から起こるものである。というのも、印象というのは、潜在意識や阿頼耶識にその所在を置くのだから。始めに薄っすらと感じることがある、というのが印象の形式であり、そこには意識の明晰性はない。そしてこの薄っすらと感じる、なんとなく感じ始める、という事態は、各人が経験しているように、自らの意志や意図とは無関係に起きることである。

 阿頼耶識という言葉を作った唯識論でも、自己に執着する末那識より一段階深みに、阿頼耶識があるとされている。私たちが、自らの意志や意図など、どうにもならないところから沸き起こる情動というのは、誰もが経験したことがあるだろう。

 私たちの認識はどうだろう。まず私たちは感性によって何らかの素材を得る。それを悟性によって言語化して形を与える。しかし、感性によって素材を得る時、そこには何の作為もない。この感性によって素材を得るという事態が、印象の意味であるが、このことが示すのは、私たちは何より先に直感的に物事を捉えるということである。認識の起点というのは、直感にあるのである。そしてこの直感、印象というものが起こるのは、潜在意識や、阿頼耶識においてである。

 この潜在意識や阿頼耶識を、私たちは自分の意識で完全にコントロールすることは出来ない。オートマチックに働いているのが、この潜在意識や阿頼耶識と言ったものであるから。そして心が閉鎖的であるという観念は、意識が発達しているからこそ、言えることなのだが、そもそもの始まりは、意識は発達したものではなかったのである。生物として、その身体進化した結果、意識がここまで高度になったのであり、ほとんどの動物は直感の領域で生きているのである。つまり心を限定してしまう前に、非限定的な心が在ったのである。この非限定的な心は、自ら為そうとせずとも、他のものに反応してしまう、反射してしまう。何故なら非限定的であるから。そしてまさにこの非限定的な心が、私たちの心のほとんどを占めるからこそ、直感が成り立つのである。例えば水を見た時、その水を鏡のように反射するが如く、水の印象を受ける。そしてこの鏡のように反射するという、意味の根拠には絶対無がある。絶対無はとても難しいのだが、分かりやすく無内包のものということも出来る。つまり、完全に物理を離れた、純粋に形而上的なものである。何も内容のない地点を心が持つからこそ、それはあらゆる意味に変容する。

 絶対無という鏡に映されたもの、そこに印象は生起するのだが、この絶対無の内容のなさが、意味の客観性を保証する。何遍も言われていることで、直感について見直し出した昨今においては特にそうだが、感性というのは、以上の理由から間違い得ない。間違い得るのは、ただ悟性や表象においてのみなのである。

 私が『心の研究』で言った、水の心というのは水の感じである、という事柄も、以上の意味論を根拠とする。直感においては水を直に感じているのである。西田が考え抜いた純粋経験というものも、直感において起きていることである。つまり、断崖をよじ登る私と、断崖が一体化すると言った時、事物としての私の身体と、断崖が溶け合って全く一つになってしまえば、私は岩になるので、もはや私は断崖をよじ登ることは出来ないだろう。しかし、当然そんなことは言っておらず、深層領域のことを西田は述べていたわけである。懸命に断崖をよじ登る時、直感が冴えわたり、意識の方はもはや直感に従うだけになる。その時、主もなく客もなく、という事態が起きるのである。

 西田の純粋経験という概念を、宗教的に過ぎないと批判する者もいるかもしれないが、むしろ動物的であるほど、原始的な経験であり、経験の根源的なところを理解するための、概念なのである。これに関しては、ただただ素晴らしいと言わざるを得ない。もし私たちが直観という明晰性だけを求め、直感という曖昧模糊としたものを捨て去っていったなら、私たちが認識し得る世界の意味は、極めて貧相なものとなるだろう。しかし西田自身、行為的直観という言葉も作ったように、西洋哲学を織り交ぜるため、仕方ないところもあるのだが、直感ではなく、直観という言葉を使っていた。ここは西田を研究する者は、認識を改めなければならないと思う。自然諸科学が発展した西洋の学問において、明晰性は重要だし、そのため、直観は考えなければならない認識形式ではあるのだが、その逆に東洋に残された研究領域として、直感は見直さなくてはならない。そうしなければ、哲学は十全なものとはならないだろう。

 そして井筒が『コスモスとアンチコスモス』の中で取り上げた、華厳の融通無礙な場というのも、まさにこの領域で適用されなくてはならないのである。つまり、絶対無という心の鏡が映す、意味領域では意味は融通無礙である。この絶対無という場は、世界に遍在していて、それが故に火山にある石は、火山の雰囲気という意味を、鏡のように映し出すのである。絶対無という心のアルケーは内容を持たないので、石や水と言った事物の内面に心があることを必要としない。石や水にとっては、内面も外面もないわけで、現れたそのままがその心である。

 私は精神感応というものも世界に存在すると思っている。精神感応、いわゆるテレパシーのことだが、漫画などでは、精神感応は人間の考えが言語となって伝わってくるように表現されている。この在り方では精神感応は存在しないだろう。しかし今まで述べてきたような在り方ではどうだろうか。つまり直感の内では、水の精神と私たちの精神は感応し、或いは怒りを持った雰囲気を、直感の内で感得する時、まさにそこで精神感応は起きているのではないだろうか。したがって言語化される以前の、何らかの感じは、かえって精神感応なくしては説明がつかないのである。精神感応なくして、どこからやってくるのだろうか。テレパシーノックアウトというものも、この世界には在る。しかしこれも現状記述されているような、オーバーなものではない。いわゆる思念を送り、人を“瞬間的に”操るような記述が為されているのだが、実情はただ精神が他の精神に当てられるだけのことである。楽しい雰囲気の中にいれば、楽しい雰囲気に精神は当てられる。この“瞬間的に”というところは、存外正確な記述であるだろう。というのも精神感応するのは、瞬間的なことであり、その次の瞬間には、意識がその軌道を他へ向けることが出来るからだ。

 呪術や魔術と言ったものの存在も、精神感応から考えると可能になる。自分のネガティブな情動は、他者の心にネガティブな影響を与える。ネガティブな言葉ばかりを心に唱えていれば、それは呪術となり、他の人に作用するだろう。文字通り、人を呪わば穴二つということになるが。呪術も魔術も、阿頼耶識や潜在意識の領野で作用するのである。

 しかし、これはやられっぱなしなわけではない。自分の心に結界を張っておくことも出来る。言葉や観念がその結界となる。ネガティブな気持ちが雰囲気にあっても、それを乗り越えるための言葉を阿頼耶識に種子として留めておけば、それを跳ね返すことも出来る。或いは人のネガティブな思念を、それを超えるポジティブな観念によって受け付けないことも出来る。元から持っておかなくても、その時に、心の中で対抗呪文を唱えるだけでも良いだろう。対抗呪文というのは、対抗し得る言葉ということだ。

 これは素朴な場面でも誰しも使っていることだが、そしてあまり良い例ではないのだが、先入観というのは、結界となって、印象を跳ね返すことがある。これも観念が結界となる例である。

 先ほど、私は、感性は間違い得ないと述べたが、以上を踏まえると、そんなに単純な問題でもないのだ。例に出した通り、私たちは予め、観念や言葉を持っている。それが感性を妨害する可能性もあるのだから、絶対に安心出来る話でもない。しかし、これもまた先に述べた通りなのだが、感性の中に入ってくる情報は、声なき声かもしれない。重要なのは、感じたことから、言葉や観念をアップデートすることである。

 実はこの話はリベットの実験の話にも関わってくる。私たちの意志は、直感的な領域ですでに働いているので、確かに自分が気付く前に、ボタンを押そうと身体は動くのだが、今述べたように、言葉や観念をアップデートすることで、行動を変えていくことが出来るのだ。

 そして言葉や観念をアップデートすれば、感性が何に向くか、何を受け止めようとするのか、ということも変わってくる。直感は意味全体に触れているのだが、その中のどの意味を感じるのか、という認識も変えることが出来る。しかし結局、また感性は、オートマチックに他者を受容するので、感性を完全に制御することは出来ないのだが。

 そしてニーチェの言う同情という概念も、実はここで効いてくるのだ。つまり、直感の領域で精神感応した時、私たちは弱者のネガティブな思いをオートマチックに受け止めてしまう。しかし、同情がオートマチックなものなら、同情を無理に止める必要はないのではないのか、とも私は思ってしまう。というより、世界はそうしてフェアになっていくのではないだろうか。もちろん、負けじと自分を律することも大事なのだが。

 魔術や呪術が通用するのは、融通無限な心の場があるからなのだが、そこは全くの無法かと言うとそうでもない。井筒はこの場をアンチコスモスだと言うだろうが、魔法というように魔の領域にも法がある。それが井筒の言及した、阿頼耶識における元型である。混沌の中にもある程度の規則があり、その抽象的な規則とも言えないような規則が、魔の領域でもある。そしてこの元型と事物は照応関係にあるので、元型を知りつつ世界で生きること、それが魔法の中で生きることなのである。魔法は認識と行動と価値を変容する。それを可能にするのが創造的想像力なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?