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不便利主義のススメ:これからのアートはInconvensionismだ

 コンビニエンスストアは全国のあらゆる土地にあり、その言葉通り、人々に便利さを提供している。ふと小腹が減った深夜1時、衝動的に頂くカップラーメンはその欲求を満たしてくれる。いまとなってはお役所業務もコンビニで済ませられる事が増えてきており、その機能の拡充はこれからも進んでいくだろう。

【便利さを追求しスーパーフラット化した人間と街並み】

 便利さとは、アクセスのし易さとそれぞれの欲求を満たすのに掛かる時間の短さと言えよう。現代に生きる私たちにとって、便利さを追求し、より自らの身体を酷使しない行動が合理的であるのだ。
 しかし、これらが生んだ結果として、危惧するものがある。人々の画一化だ。便利さを追求することは、即ち大量生産された製品を消費し、摂取し生きていくということだ。高度経済成長期から平成の前半までに見られたファッションの画一化に比べれば、多様な人間がいるように感じるであろうが、果たして精神はどうだろうか。
 街並みも人間と同様で画一化している。東京の主要都市を歩けば、同じコンビニ、同じチェーン居酒屋、百貨店も同じような顔ぶれである。京都や大阪へ足を運んだところでさほど変わらない。人々が便利さを求めると、街並みが画一化されるのである。まさに村上隆が提唱したスーパーフラット化が進んだと言えよう。

【サステナビリティは資本主義の枠から出られていない】

 近頃、SDGSやサステナビリティが声高に叫ばれるようになってから、政府や企業はさまざまな取組を打ち出している。昨年の10月に始まったレジ袋の有料化。それに合わせて、サステナブルな企業であるとアピールする企業CM。捨てられる製品のリユースやリサイクルなど枚挙にいとまがない。

 そんな中、サステナビリティと提唱したところで、いまだに大量生産の流れは変わっていないのではないだろうか。エコバックを土に変わる素材で作り、販売したところで、それはサステナブルな取り組みなのだろうか。生産量を減らす、あるいは生産しないサステナブルな取り組みは出来ないだろうか。いまだ、人間本意、人間中心の”サステナブルっぽいキャンペーン”である限り、前時代の枠から抜け出せない。そして、この環境から生まれるアートもまた、新たな芸術運動ではないと思う。

 資本主義が大手を振って歩く時代、これに付き従ったアートがコバンザメのように世界を回遊している。あるいは資本主義を否定したかのような擬態で我々を欺いたアートがいきっている。私たちの時代のアートはこれらを否定し、新たなテーゼを提唱しなければならない。

【新たな価値基準の提案:不便利主義】

 元来、そのものが持ち合わせていた意義や機能を廃止た、つまり貨幣的価値や役割が希薄なアートを生み出さなければならない。そしてそれに乗っ取った、新たな造形が求められているのではないだろうか。

 そこで私が唱えるのが『不便利主義(Inconvensionism)』である。便利さと資本主義は大変親和性が高いが、それを否定し、前時代と呼んであげようではないか。早く、あの人たちに引導を渡し、隠居していただこう。

 アートというのは、デザインと異なりそもそも機能が備わっていない物だ。不便利主義的な造形を持ちうるアートは、その意味では元来のアートと変わらないように感じられるだろう。しかし、敢えて何か機能を備え、生み出す機構を備え、そこから生み出される何かも、役の立たない、不便な物であればそれはアートになり得るのではないだろうか。

金がなく、日々生活の為に働く者。金はあるが、精神的に満たされない者。両者とも、便利さが美しさであると誤認した世の中で、その価値観で生きている窮屈さを感じ、生きる意義すら見出せない。この環から解脱する為にも、無意味で不便な物や事に美しさを感じるマインドセットが鍵になる。絶対的幸福感を自分の中に持つという事は、自らの宗教を持つのと同義である。それを不便利で無意味な時間、自分が感動する事に充ててみてはどうだろうか。そこから見える幸福感はきっとあなたを救うはずだ。いま求められているアート、次世代のアートとはつまり、このマインドセットを引き起こす造形を有した作品である。人々に新たな価値基準を提案し、実践させる。これこそが不便利主義者に求められる。

【不便利主義の作品:髙田美乃莉】

 今回、この考えを提唱するに至った作品として、京都芸術大学の髙田美乃莉の作品を掲載しておく。

 この作品は上部にある槽に溜められた、茶褐色のスライムが徐々に落ちてくると言う作品である。機能として何の意味もないこの塔は私に新たな概念を与えてくれた。

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