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日本版の広告が外した女性こそケリー・ライカート作品の本質 『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』

ケリー・ライカート監督、
『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』。
原題『CERTAIN WOMEN』。
直訳すると「ある女たち」みたいな感じかな(英語苦手)。

ある町の人々の、人生の中の「ふと忘れられない瞬間とその余韻」を、それぞれ切り取って繋いだパッチワークのような映画。複数の女性たちの群像劇で、説明的だったり、これみよがしな演出はなく、抑制の効いた距離感で風景と人物たちを静かに見つめる映画。かと言ってドキュメンタリータッチではなく、何も起きない無為な時間を体験させる演出とかでもない。出来事はしっかり起こり、取り返しのつかない空気に居たたまれなくなる場面もある。
その絶妙な塩梅を「映画の品格」と信じて、映画作家としての全才能を傾けているような、そんな映画。

邦題の「ライフ・ゴーズ・オン」からはどこか前向きな印象を受けたが、むしろ原題の「ある女たち」から感じる硬派な純文学のような、何かを諦めてるようで、あらかじめ失われているようで、でもそこでじっと命を燃やしてる女たち・・・そんな印象を実際は受けた。

アメリカの田舎町の日常と鈍色の空を背景に、役者たちの繊細な表情の変化を捉えたカメラがとても素晴らしい。説明的じゃない場面や演技が続き、じっと見つめていると、ふいに心動かされる。それを捉えるカメラが主張しすぎないのが良い。

何に似てるかな、と考えて、ジョン・ヒューストン監督の『ゴングなき戦い』を思い出した。凡庸な元ボクサーの男が、何も燃え尽きることなく、凡庸なままに終わる。ヒーローでもヒロインでもない、町に大勢いる普通の人たちの映画。大きなことは何も起きないけど、人と人が起こす忘れ難い場面の連続なのも、似た印象。

あと、街の中に馬が出てくる映画はだいたい良い映画に思えてしまう。なぜだろう。馬がそこにいることで、文明とか人間が相対化されるからかな? そうすることで「人生とは」とか「幸せとは」って言葉が頭をよぎるのかもしれない。あと、そこにいるはずのない生き物がいることによる非日常感。黒沢清の『ニンゲン合格』とか。

観る際は、映画館の暗闇にひたるか、深夜に部屋を暗くして一人で観るか、をおすすめする。

最後に、余談だがこの映画にとって本質的な話を。

日本版のポスターやDVDパッケージには主要人物が一人カットされている。

上が日本。下がオリジナル。

「なぜ?」と思う。「わざわざ消す?」と不思議に思う。
確かに知名度で言えばクリステン・スチュワート、ローラ・ダーン、ミシェル・ウィリアムズに劣るだろうが、
アメリカ先住民族の血を引くリリー・グラッドストーンこそ、この映画のもっとも象徴的な人物であり、後半の実質的な主役である。

彼女が演じるのは、誰とも交流せず、農場で馬の世話をして、たった一人で暮らす地味な女。外見も労働者そのもの。多くの映画やドラマで取り上げられることがほとんどない「忘れられた女」だが、彼女が起こすささやかで不器用な行動とその結末には胸がつまる。そして「彼女をどう描いたのか」がこの映画の大きな核である。

彼女が日本版の広告から「忘れられた女」にされてしまってるのは、この映画を売りたい人たちが考える〈ミニシアター系の女性映画〉というカテゴリーに「非白人の労働者の地味な女」はウケないと判断されたからなのだろうか? だとしたら寂しいし、まさに映画の中の彼女そのものなのだが。


【追記】
リリー・グラッドストーン、今度のスコセッシの新作でディカプリオと共に主演っぽいですね!たのしみ!

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