俺が『男の子』だったことはあるか?

気がついたらおっさんであった。
吾輩はおっさんである。どこで生まれたかの見当は大方ついているものの、世間の薄暗いじめじめしたところでウンウン唸っていたことだけは記憶があり、なんやかんやで気がついたらおっさんであった。
 
若い頃からフケ顔で、年齢より年上に見られ、まあ俺はおっさんですよと不貞腐れていたら、いつの間にか紛うことなきおっさんになっていた。これは悲劇でもなんでもない。年を重ねればみんなおっさんか、おばさんか、おっさんとおばさんの中間みたいな、なにか不思議なものになる。これは自然の摂理であり、我々人間風情には如何ともしがたい。

それは、まあいい。今回はおっさんになる前の話をしたい。
子供の頃はみんな平等にあった。いいか悪いかはこの際置いておく。子供だった、という事実はある。その中でも『男の子』という存在にフォーカスしたい。
諸兄らはいずれも過去は男の子であっただろうし、俺もまた男の子であったように思う。一般に男の子というのはどんな存在だろうか。そもそも男の子はどの年代の男子のことを言うのだろうか。
今回は小学生くらいの年齢に設定しよう。6才から12才前後だ。なんなら幼稚園くらいの年齢も入れていい。いや、入れるべきであろう。
この設定には理由がある。理由というより、一番子供らしい男の子っぽさに溢れるのがこのあたりの年齢だと俺は思い込んでいる。思い込んでいるのだから仕方がない。仕方がないのだからこのまま話を進める。

世間が男の子に向けたコンテンツは大量にある。娯楽には困らない世の中なのだ。いや、はるか昔から男の子達はそこにあるものでなんとなく盛り上がっていたに違いない。例えばメンコなどという厚紙を叩きつけ合う残虐極まりないファイトの末に、あろうことかそれを奪い合ってワイワイと楽しんでいた時代もあっただろう。ファミリーコンピューターが発売されたばっかりに、ファミリーとの距離感が曖昧になり、いったい何コンピューターなのかわからなくなってしまうほどにのめり込んだ時代や例もあっただろう。

前置きが長くなった。何が言いたかったのかというと、男の子に向けられたコンテンツを、俺は男の子時代に満遍なく楽しめていないのではないかという懸念である。もちろん直撃世代であるスーパーファミコンはやった。それこそファミリーとの間に溝ができるほどやった。
ローラーブレードもやった。海と田んぼしかない田舎に突如沸き起こった謎ムーブメント。流行る前年に誕生日プレゼントで買ってもらったローラースケートがあったにも関わらず、お年玉でローラーブレードを買ったのだ。地面と車輪での、いわば世間と俺との摩擦係数を低下させておいたおかげで、現在も順調に人生を滑落している。

ワイワイと楽しむには楽しんだ。では一人の楽しみ、趣味などの、もっと内側に作用するものはどうだろう。田舎すぎて文化的な習い事など、新しい何かに触れるきっかけは特になく、テレビくらいしか楽しみがない土地である。
友人らはウルトラマン、仮面ライダー、戦隊物に夢中であった。公園で遊んでいても「カクレンジャーの放映時間だから帰る」と言い残し、帰ってしまうのである。テレ朝系のチャンネルがなく、戦隊物などは夕方に再放送していたのだ。再放送はわかるが、ちょっと待て。ただでさえ4人でやっているゲキムズ野球の難易度をさらに上げてどうする。まあ遊びの場を去ってでも観たかったのだろう。あの頃よりも多くの作品に触れた今ならわかる。

戦隊物である。勧善懲悪である。勝手なイメージで大変心苦しくもあるのだが、視聴していない俺にとっては勧善懲悪、もっと俺のイメージだけの話をすると、水戸黄門なのである。いいか悪いか、優れているいないの話ではない。
俺だって中学生の頃に再放送で水戸黄門を眺め、ストーリーや印籠や家紋がわからないまま、ただただ羨望の眼差しを向けていた。正確に言うと何かしらの巨大な権力が羨ましかった。中学生はそういう時期でもある。
しかし、戦隊物を見る小学生の男の子は違う。違うんじゃないかな。もっと単純に『正義』という概念に心を躍らされていたのではなかろうか。

なぜ俺が戦隊物を始めとした、ざっくりと括るとヒーロー物を観ていなかったのだろうか。
幼稚園の頃、バスで送迎があった。もちろん幼稚園に何台もバスがあろうはずもなく、帰りはA町ルート、B町ルートのような順番が決められていて、A町ルートの園児をバスに乗せ、送り届けた後、園まで一度戻ってきてから次はB町ルートの園児を乗せて再出発する。この待ち時間は二部屋くらいに分けられていて、テレビではウルトラマンか仮面ライダーのビデオを流していた。もちろんこの作品達が善も悪も飲み込んだ奥深い作品なのは聞き及んでいる。でも当時の俺はまだわからない。単純に良いモノとワルモノが戦う特撮でしかない。当時なぜか特撮という言葉を知っていた。

面白くなかったのだ。なんだか派手に動き回っては見えるものの、一話から観たわけでもなく、話の展開もわからないけど勝つ側は決まっている子供だましに見えたのだ。
その時の俺と言えば、部屋の隅っこで、子供だましの代表格に位置するとも言える、様々な形の木の切れっ端をどれだけ高く積めるかに執着していた。
俺は無心に木を積む。他の子供はヒーローの活躍に胸を踊らせて正義の心を養う。その差はおそらくどこかで出る。
具体的には中学生くらいになって水戸黄門の再放送を観たときに「因果応報、悪事をしたものは懲らしめられる」と見るのか「何かしらの権力が羨ましくて仕方ねえぜチクショー」と思うかどうかである。

もちろんこれは俺の主観なのでそれぞれ思いはあるだろう。しかし俺は悔やんでいる。あのとき、幼稚園バスを待つ時間にヒーロー物を観ていれば、そして小学生の時に戦隊物を観ておけば、俺は正義の心、あるいは悪に負けない克己心を養い、今頃は人から愛され、人を愛し、素敵な人物になれていたのではないだろうか。俺もお前も名も無い花を踏みつけられないおっさんになっていたであろう。いたに違いないんだよ!世間の薄暗いじめじめしたところでウンウン唸っている場合ではなかったのである。

おっさんになって、ときどきヒーロー物の漫画を読む。漫画なんて大体はヒーロー物か、ラブコメか、エロ漫画である。ラブコメかエロ漫画ではなく、ヒーロー物を選択する。
あの頃にわからなかった正義の心が、今ならわかる。
俺の好きな漫画のヒーローは、正義の象徴がいないこの世の中、誰かが火を灯さねば、と言う。しかし現実は残酷である。灯す誰かはいないし、見渡す限り不景気でしみったれた話題ばかりだ。せめて自分の歩く道くらいはぼんやりでいいので照らして行きたいと思う。それが正義であるかはさておき、世間様に顔向けできない歪んだ道ではないことを祈りながら火を灯すために、男の子と呼ばれていた時期にこそ観て、感じておきたかったことが非常に多いなあと帰りの電車でふと思い立ち、適当に書き始めてみたら結局よくわからないことになってしまった。

じめじめしたままおっさんになり、10年後もきっとこんなもんだろうと思うので、先を見据えて逆に今、正しき心を養うために然るべきお店に行き、エロ漫画を買ってこようかと思う。
俺の正義は、これなんだ。

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