青鬼になりたくて

男には散り際の美学がある。去り際の美学がある。これらは終わりの美学である。男として生きとし生けるものはすべてが持っている美学であり、もしもわからないという男がいたとしたら、貴君は『まだ』男ではないのだ。今しばしその時を待つが良かろう。わかる時がいつか来る。絶対に来る。わかってしまうのだ。心して待つがよい。

そして、世で女と呼ばれる側にある性別の方々には大変申し訳なく思うのだが、男とはそういった非常に厄介で面倒な美学を持った生き物であることを先に謝っておきたい。厄介で面倒くさかろうと誰に怒られてもいないし、俺を怒る女がいるわけでもないのだが。いるとすれば俺の母親くらいのものであろう。非常に申し訳なく思っている。

国民的怪盗アニメのオープニング主題歌でも語られていたように、男には男の世界がある。それは一筋の流れ星なのである。
女には女の世界もあるんだろうが、俺にはわからないので、これを読んだ誰かがここぞとばかりに筆を執ってくれるとありがたい。俺も読みたい。知らんし、女の美学は。

散り際や去り際とは、死に際だったり別れ際だったり、簡単に言うとそういうことだ。例えばだが、武士は何らかの責任を取る際には潔く割腹して果てることを美学としていた。現代でも男の7割5分は異性との別れ際に見苦しくなく消え去ることを信条としている。立つ鳥跡を濁さずとも言えるし、諦めが早いと言えるのかもしれない。
ちなみに例に挙げた後者だが、これを第一信条とするタイプは、絶対に跡を濁した上に更に頑固でしつこい油汚れまで浮かべてからようやく縁が切れるか、刑事事件になるかどっちかである。そういう男性とお付き合いされている女性におかれては、スマートフォンの緊急通報機能をしっかりと把握しておいたほうがいいだろう。これを読んでいて、俺と実際対面したことのある女性の場合なら尚更である。俺は目が会っただけで好きになってしまうピュアなタイプであるからして、緊急通報機能の把握は必須事項である。心得ておいて欲しい。

かといって積極的に死にたいわけでも消えたいわけでもないのだ。人生をそれなりに生きていると、責任というものが付きまとう。残念ながらこれを回避する方法は、平民には存在しない。いくら善良であろうともだ。
では付きまとう責任を取るためにと言って、少々のミス程度で死んでいたのでは割に合わない。死ぬなら責任相応でなければこちらの身が持たない。身が持たないというか、人間は基本的に一回しか死ねない仕様になっている。
だからといって死なねばならん程の責任もまた、善良で平民には存在しない。
念を押すが、これは美学なのだ。美しく生きるための、美しくあるための理想なのである。
美学と責任のバランス、さらに誰かのためになれば最高なのだ。

ところで、泣いた赤鬼という物語をご存知だろうか。唐突にネタバレをしてしまうと、村人と仲良くなりたい赤鬼のために、唯一の友達である青鬼が一肌脱ぐ。鬼は人から怖がられている。青鬼が村に行って乱暴を働き、赤鬼がそれを止め、村の人から「赤鬼はいいやつだ」と思わせる、そういう筋書きである。青鬼が提案し、赤鬼はこれに乗った。
この目論見は上手くいき、赤鬼は村人と仲良くなる。しばらくぶりに赤鬼が青鬼の家を訪ねると、赤鬼に宛てた手紙が残されており、「いいやつの赤鬼が暴れていた青鬼と仲良くしているところを見られたら、せっかく仲良くなれた村人が怪しむだろう。私は消える。お元気で」といった旨が書かれていた。それを見た赤鬼は大泣きする『泣いた赤鬼』という話だ。
 
この青鬼にこそ男の美学が詰まっていると言って過言でないだろう。わかるだろう。もしもわからないのならば、やはり貴君は『まだ』男ではないのだ。
これで青鬼が「赤鬼が村人と仲良くなれたんだったら俺も仲良くなれるように取り計らってくれ」などと言おうものなら台無しである。タマ無し野郎である。男の風上にも置けぬ。なんなら風下にも置きたくない。
消え去るからいいのである。なぜ消えるのがいいのか?何度も言うが、これが美学なのだよ。わかるかね。

わかっている。俺だってここまで書けば理解している。誰かが消えた者のことを覚えていてくれなくては意味がないんだと。だけど「覚えておいてくれ」なんて言ってしまったら、美学でもなんでもない。ただの厄介な人なのである。そんなやつは男の風上にも風下にも置かれない。それ以前に人としてどうかと思う。わかっているのだよ。

俺は割と自分から消えてきたタイプである。縁が切れた誰もが俺のことなど覚えてはいないだろう。俺が友人と友人を繋ぐと、往々にして俺が省かれる。拗ねているわけではないのだが、存外に寂しいものである。だから友人と友人を繋ぐことをしないのかと言われると、そんなことはない。これから先の人生も人を紹介して、それが仲良くなったら勝手に消える。俺のことは忘れて存分に人生を謳歌するがよかろう。このあたりは別の機会に書きたい。本当に拗ねているわけでもなければ病んでもいないし、仕方ないとも良しともしていない。消えたいわけでもない。成り行きなのだ。そうならない例だって数多くある。

まあこれを書いた時点でもう俺は、ただの厄介な人レベルにまで成り下がったわけだ。そんな日があってもいい。
青鬼になれないまま、おじさんの人生は佳境に入っていく。おじさんの人生など常に佳境だ。今が一番面白い。
そして、俺のこんな情けなく厄介な文章を皆が早々に忘れてくれることを、切に願う。

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