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てめぇ、さしずめインテリだな?

 人文・社会科学とは人間のあらゆる営みを言語化する学問と言っていい。この学問は、社会におけるコミュニケーションの様式やシステムの在り様を記述する。

 しかし、その言語化という行為が、現象の在り方を歪んだ形で表現してしまっていることはないだろうか? つまり、言語化とは現象を「ありのままに」「そのままの形で」表現しているわけではないということだ。言語化の過程の中で捨象されてしまう「何か」があるのではないか。その何かを言語化することは難しいのでやめておくが、ともかく学問の言葉で現象を説明することには限界が付きまとう。

 そもそもの話、現象を言語化するという行為自体がおいどんからすれば「野暮」である。愛だとか友情だとかを学問の言葉で言語化することは、アカデミシャンからすればそれは世界を説明するために必要な仕事なのだろう。

 しかし、おいどんのような庶民の感覚からすればはっきり言って「しゃらくさい」のだ。つまり、「そんなこといちいち言葉にすんなよ!」ということである。

 そんなものは言葉で説明されるまでもなく、日常的に、自然的に人々が行っていることであって、難しい専門用語で「愛とは〇〇であり~、友情とは××であり~」などとしたり顔で語られたらシラケるだけだ。

 それは「理性」の光で世界を照らそうとするインテリの傲慢にも映る。そんなインテリたちにおいどんはこう言いたい。

「我々の暮らしを見下ろすかのようにエラソーに語るな!」

「愛とは〇〇であり~、友情とは××であり~ ニチャア~」
「うるせー!!!!!バコーーーーーン!!!!!」

 かくいうおいどんも人文系の人間なので現象の記述はサガみたいなものなのだが、そうしたことにせめて自覚的でありたいと思うのであった。

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