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私小説のようなエッセイのような限りなく実話に近い小説『麻生優作はアメリカで名前を呼ばれたくない』3

 優作はリストラされて以来、ろくに栄養のあるものを食べていなかった。
 アメリカでは日本食は高級で、到底払えない。一ヶ月以内に社宅を出なくてはならず、来月からは住む当ても無かったが、最期の贅沢食と称してローリング(廻る)寿司を訪れたとこだった。

「神か……」

 会社をクビになって精神が弱りきっているから、幻覚と幻聴が同時にやってきたのだと優作は思った。
 部屋を明け渡すため、荷物を整理しながら、もう何度目かわからない深いため息を吐いた。

「もう、この家ともお別れか」
 アメリカに単身赴任してから5年という月日が経った。
日本で海外赴任の話しが出たとき、妻のカオリも喜んだ。
「うそぉ、やったじゃないあなた! 私、駐在妻になるのが夢だったのぉ!」
 と、アメリカ人みたいに抱きついてきた。
 結婚前は、カオリにそんな夢があったことは知らなかった。

「海外に引っ越したら毎朝カレーを作ってあげるわね」
 おそらくイチロー夫人の影響だろうか、そんなこと言って含み笑いをしていた。 
 しかし、その赴任先がネバダ州と知ってからは態度が急変した。
「私は行きませんからね。行くならあなた一人で行ってきてよ」
 カオリは荒っぽく洗い物を片付けて、子供のように口を尖らせた。
「なんだよ。あれだけアメリカに行きたいって言ってたじゃないか」
「だって、赴任先はロスかサンフランシスコかニューヨーク、せめてシカゴかシアトルだと思ってたんだもん。でもネバネバ州って一体どこよ?」
「何を言ってるんだ。ネバダ州はラスベガスがある所だぞ?」
「でもラスべガスじゃないんでしょ?」
 カオリが激しくキャビネットを閉じた。中の食器がガタガタと揺れた。
「そんなの恥ずかしくて誰にも言えないじゃない!」
「住む場所に恥ずかしいも糞も無いだろ」
「あるわよ! たまに一時帰国して帰って来た時に友達になんて言えばいいの? 海外在住って言っても海外のどこですか、って絶対聞かれるでしょ? その時にロスとかサンフランシスコ、ニューヨークって答えるのと、ネバネバ州とでは全然違うの!」
「ネバダ州だ! 納豆みたいに言うな!」
「どこの田舎ですかって、みんなに鼻で笑われるに決まってる! この家の家賃を払うのがもったいないなら今より安いところに引っ越してあげるわ。でも東京からは出ないから!」
「なんなんだ、お前は! 何故そうまでして住む場所にこだわるんだよ。東京なんてなまえがブランド化してるだけだろ? 住んでるヤツ等なんて殆ど田舎出身じゃないか」
「あなたはおじいさまの代から東京都世田谷出身で、東京生まれの東京育ちだからそんなことが言えるのよ! 自分が今どこに住んでいるかって大事なのよ! 自分が地方出身だっていう事実は曲げられないのよ。だからせめて今、住んでる場所で対抗するしかないの!」
「対抗って、一体誰にだよ」
「周りのやつらに決まってるでしょ!」
 カオリの顔が般若のようにつり上がったので優作は少し怯んだ。
「そ、そんな怖い顔するなよ……」
「根っからの都会生まれのあんたには、地方出身のコンプレックスなんて一生理解できない! 住む場所や名前なんてどうでもいい、なんてことは決してないの。名前が持つイメージがいかに人を動かすか、あなたわかってないわけじゃないでしょ。どうでもいいって思ってたらディズニーランドだって『東京』なんてつけてないわ! 東京ディズニーランドって聞くたびにわたし、胃がきゅうってなるの!」
 優作は妙に説得力のあるカオリの勢いに圧されていた。
「で、でも、だからって、お前は夫の俺に一人で海外に行って単身赴任しろってのかよ?」
「そうよ!」
 当たり前じゃないの。という文字がカオリの額に浮き出ていた。
「そ、そんな……」
 優作はぽかんと口を開いたまま、自分の体の中の空気が口から抜けて行くのを感じていた。
 売り言葉に買い言葉とはいえ、こんなにはっきりと答えれるものだろうか。仮にも一度は愛し合った夫婦なのに。
もしかして最初から愛はなかったのか?

カオリとは友人に紹介されて知り合った。
その時はしおらしく、恥ずかしがり屋でおとなしい女性だった気がする。こんなに人って変わるものなのか。
「だから、ネバネバ州には一人で行ってちょうだいね。ここの3LDKは一人暮らしするには大きすぎるから、引越し先くらいは見つけてあげるわ」
「見つけてあげる……だと!?」
 優作はパクパクと酸素を得ようとする金魚のごとく唇を震わせた。
 この女、一体、何様のつもりだ!
 体から抜け切った空気が突然、熱い感情で覆い尽くされ、優作は初めて妻を怒鳴りつけた。
「ふざけるなっ! 単身赴任は断固として反対する! 許さんぞ。でなければ離婚だ!」
「あ、そう。じゃぁ、離婚していけば? その代わり、慰謝料はたっぷり置いていってよ」
 カオリはふてぶてしい態度で手に持っていたお玉を絨毯に投げつけた。
「な、なんで、俺が慰謝料払うんだよ」
 傷ついてるのはこっちなのに。
 優作は勢いから出しただけのセリフに対し、妻があっさりと承諾したことに戸惑った。
「当然よ! だってあなたが離婚したいんでしょ? 言い出しっぺが慰謝料払うのがこの国の決まりでしょ?」


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