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ドライブマイカー テーマは禅語「平常心是道」につながる

邦画「ドライブマイカー」 テーマは禅語「平常心是道」

ドライブマイカー

禅語で言う「平常心」は現在の「焦りや不安のない心」の意味とは違います。「ただ目の前のことに徹し、当たり前のことを積み重ねることが仏道」との論旨です。この禅語は今を懸命に生きることを心掛ければ、何事にも動揺しない仏の境地に達すると教える言葉です。

仏道に限らず、自分にできる最善を尽くし、かけがえのない人生を精一杯生きることは大事ですが、長い人生の中で、当たり前を当たり前として受け入れられなくなる瞬間が出てきます。何が当たり前なのかもわからない、それどころか疑問さえもわかない。この映画のテーマのひとつ、「怖いのは真実を知ろうとしないこと」が生き方になっている現代です。

劇中劇のシステムも取り入れた本作では、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」という舞台が主人公とその周りにいる人たちの人生を重ね合わせる重要なシーンになってきます。「それでも生きていかなくてはならない」という舞台の最後のセリフは映画を見ている私たちにも向けられた言葉です。
映画では、この大事なセリフが舞台シーンに現れますが、言葉ではなく手話で伝えられる予想外の設定と、そしてこの手話こそ、凄まじいまでのコミュニケーションツールであることに途中から気付かされているので、胸に刺さります。

音を発して、伝える言葉よりも、手話の動きと相手を見つめながらの表情の語り口が、会話というコミュニケーションを超えていることに気付かされるのです。

ワーニャ伯父さんの「どんなに夜が続いても、ひたすら働いて生きるしかない」というセリフが禅語の「当たり前のことを当たり前に積み重ねる」【平常心是道】という禅語に同じ価値を感じるのです。

経験を積み重ねるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。
大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「なりたい」と思う強い気持ちなのです。

真実を聞かなかったことを後悔しているのではなく、
真実を知ろうとしなかった自分の浅はかな姿勢に後悔の念を覚えるのです。
真実を知ろうとしない行為は、相手を無視しているのと同じ。無視とは「愛」の反対語です。

「自分にもっと正直になればよかった」

誰もが後悔する過去の出来事への反省があります。

人生の有り様を教えてくる禅の真髄は、物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる、というものです。

真実を恐れ、リアルに目を背けて生きてきた主人公が最後に気づいたのは、真実を知ろうとする姿勢が「愛」であったということ。
そして失った今があっても、「何があろうと生きる。寿命が尽きるまで」の人生観。

映画のラストシーン。ネタバレしますが、みさきが韓国のスーパーマーケットでひとり買い物に来ている場面。駐車場には主人公・家福の愛車があり、彼女はひとりで運転して帰路につきます(犬が乗っているのが愛嬌)。

「蛇足」とも見えますが、濱口監督は

「あのエンディングさえなければ完璧だったのにと言われたことがあるんですが、あのエンディングを加えた理由というのは、まあ『完璧じゃなくするため』ということだと思います。…もう少しだけ破れ目みたいなものを作っておきたかった」

「この映画のタイトルそのものが、このエンディングシーンが何なのかということの解釈のヒントになっているということだけ、ここでは申し上げておきたいと思います」と意味深い説明をしています。

みさきが愛車を一人で運転する初めての場面。これこそが、「ドライブマイカー」だったのですね。

絶対に女性に運転させないルールを破り、彼女に絶対の信頼を寄せた家福。彼はみさきの帰路の先にいるのでしょう。広島、北海道で悲劇を置き去り、日本を出て、新しい生活をはじめた二人が想像できるラストシーンでした。みさきの頬の傷はきれいに治っていました。

素晴らしい映画、「ドライブマイカー」でした。

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