ネット空間が息苦しい人はどこに退却すべきなんだろう
一部の声の大きい人、主張の過激な人が目立つようになったと指摘されてもう何年もたつ。
AIが浸透しつつある世の中で、「事実がなんであるか丹念に検証する」という態度がだんだん意味をなさなくなってきていると思う。
コストがあまりにもかかりすぎる割に、聞きたがる人がいないし、
大体の人にそれを解釈できるだけの能力がもうない。今後も知的能力において足腰の弱った人は増えると考えている。
ここで大事なのは、世間はこうなるべきとかこうしてはいけないとか主張することより、「自分はどうふるまうべきか」ということだと思う。
換言すれば、「いかにして自分を守り抜くか」ということである。
周りの人に苦労して「公平にきちんと考えようよ」と主張するだけの価値が"それ"にあるだろうか?
逆に、精神疾患を抱える自分がそのようにして誰かに守ってもらったことがあるだろうか?確かにこれまでは制度で保護されて来たが、日本の経済状況が悪くなっていくなら、今後も果たしてそうだろうか?
そこまでして守りたいものは、今の自分にはない。
先日内田樹さんの本で、「パワークラシー」という言葉を知った。
内田さんの発言は、成熟した市民が議論を重ねて民主主義を達成するのではなく、力のあるものがすべてを独占するという近代以前の世界に戻るだろうという予想だった。
(内田さんは市民の成熟した社会を望んでいる側である。念のため。)
目次の「どこに退却すべきか」について話を戻したい。
ネットが普及して、家族ですら見ているyoutubeやSNSが大きく違い、思想のずれが激しく、家庭内での合意形成が難しくなっている。
自分も昔は話し合えば理解できるはずだと思っていた。今思えば若かったなと思う。
理想論も大事だし、努力も大事。それはそうだが、それに割くエネルギーがもうないのだ。疾患のせいも一部ある。
人間関係は切って切って切りまくる。それくらいが今の自分にはちょうど良い生き方だと感じている。
自分が大人になり切れない弱さを感じます。
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