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長徳の変

以前に「寛和の変」の話を書きました。

あれが西暦986年ですが、この「長徳の変」はちょうど十年後の996年のお話です。
冒頭の絵はその元慶寺への道行きの図ですから、跪いているのが疫病で亡くなって七日関白とか呼ばれてしまう藤原道兼になります。

この道兼の甥であり、中関白と称される道隆の次男坊が隆家です。
中関白・道隆は美男子として聞こえており、「酒に酔っても美男は美男」とも大鏡に書かれているくらいですから、本当に美男子だったのかなぁ、と。

その中関白の長男は藤原伊周(これちか)と言いますが、こちらはキラキラとした才気に溢れた貴公子で、清少納言の理想像みたいですから、美少年系の優男でしょうか?
ところが弟の隆家は体育会系の脳みそ筋肉なお調子者です。
良い組み合わせの兄弟ではあるのですが・・・・・・

前回、パンデミックの恐怖もあって(というのは通説ではありませんが・・・・)道隆→伊周と関白位は親子で継承されずに、道隆→道兼→道長と兄弟で継承されていった話を書きました。

それで年が明けて長徳二年のお正月、「寛和の変」で出家された花山法皇が登場します。
実はその三年前に藤原隆家と法皇には因縁があるのですが、ここでは省略。

道長と伊周の叔父と甥の権力争いは、道長の優勢・伊周の劣勢が明らかでした。伊周には焦りがありました。
こんな時は彼女とゆっくり過ごしたい、と伊周が思ったかどうかは分かりませんが、彼が通う故・藤大納言「三の君」の元に別の男が通っているような・・・・・・
浮気?と現代人なら思うでしょうが、ちょっと感覚が違うようです。
しかも、探ってみると恋のライバルは花山法皇・・・・・?

出家して女の元に通うって有り得ないのですが、相手が花山法皇ならありです(何と言っても即位の礼の六角殿に女官を引き込んでイタしてしまった、と噂される御方)。
相手が法皇では三の君の思いがどうであろうと、それを拒むことが出来るはずもありません。
ですから互いに思いを通わした同士であってもどうにも出来ない悶々とした思いを抱くことになります。

仕事もプライベートも上手く行かない、といういらだちがあったのでしょう。つい愚痴を弟にこぼしてしまったかも知れません。
ところが弟の隆家は並の貴族とは違います。

「あの坊主か」ぐらいに思ったかも知れません。三年前の因縁もありますし。

「よし、一丁やったるか!」と武装して、故・藤大納言邸で待ち伏せます。
何も知らずにやって来た花山法皇の牛車に向かって矢を放つ!
矢は法皇の袖を貫いたと言います。
その後の騒動で二人ほど従者が殺されたとも伝わります。
とは言え、出家の身で女のところに通っていたという体面の悪さもあって、法皇は沈黙します。

それで終われば「長徳の変」などと言う名前も残らず、隆家の武勇伝で終わったのでしょうが、噂を耳にした道長が敢えて検非違使に報告を入れて、正式な取り調べにしてしまうのです。その罪状名も「上皇暗殺未遂事件」。
取り調べの中で禁止されていた祈祷や儀式を伊周や親族が執り行っていた証拠まで見つかってしまいます。

一年前までは栄華を誇っていた中関白家の没落の始まりです。

ただ、この兄弟には悪いのですが、これは天の配剤だったのかも知れません。
詳しくは葉室麟著「刀伊入寇」を読んで下さいね。
もっとも花山法皇とか刀伊とか、ちょっと作り込みすぎていて、個人的には物足りなかったです・・・・・なんて葉室麟先生に対して不遜すぎる物言いですが(^0^;)

ところで、この恋敵の争いですが、実は花山法皇が通っていたのは「三の君」ではなく「四の君」でした。
藤大納言の娘の忯子はかつて帝であった花山法皇の寵姫でした。彼女の死が時の帝の出家の原因とさえ言われています。
伊周は遺された妹の中で一番美しいと評判の「三の君」の元に通っていたので、法皇が通うのも一番美しい「三の君」に違いないと思い込んで悩んでいたらしいのです。
三の君が一番美しかったかどうかも分かりませんが、花山法皇からは「四の君」に忯子の面影が強く感じられたのかも知れません。

それにしても、なんて運命とは気まぐれなんでしょうか。

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