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読書日記2024031 「本心」平野啓一郎


むっちゃん久しぶり!元気にしてるかな??


今日はポカポカ陽気でとてもあたたかくなりそう。そろそろ桜も咲いてくるね。


うちのベランダから桜が見えるんだけど、ちょびっとだけ咲いてきたよ。


上からながめる桜もすごくきれい。今年はむずかしいかもしれないけど、いつか見に来てね。

さて、今日は平野啓一郎さんの「本心」です。
だいぶ前に出版されて、今は文庫も出ていると思う。


通勤の時間に読むのなら文庫が良いかもね。なかなか厚みがある本なので。


テーマは「愛」と「AI」です。たぶん。

自由死が合法化された未来の日本が舞台で、29歳の息子が病気で亡くなったお母さんを、AIの技術である「VF(ヴァーチャル・フィギュア)」で甦らせるお話。


読む前はSFっぽいのかな?と思っていたんだけど、ぜんぜん違います。むしろ、ものすごく人間味のあるお話だったよ。


愛ってなんだろう?「愛してる」って何に対する気持ちなんだろう?何をもって人は誰か(何か)を愛していると言えるの?


その気持ちの強さや大きさはどうやって証明できる?愛が時間や肉体をも超えるなら実在しているってどういうことなんだろう?


そういうことをいっぱい考えながら読みました。


平野啓一郎さんの本は読んだことあるかな?
良い本がたくさんあるので、よかったら他の本も読んでみてね。


では抜き書きしていきます。

「現実を生きる時間を出来るだけ短くして、いっそ、この仮想空間を現実と信じられるまでに至るならば、どれほど幸福だろうか?」


主人公の息子はVRを使って依頼者の代わりに目となって「実体験」をしにいく仕事をしているの。身体が不自由になった人から思い出の地をめぐる依頼を受けたり。

一般の人もカジュアルに仮想現実を味わえる日常があって、アバター同士で交流することも珍しくない世界。

むっちゃんはVRゴーグルを付けたことある?あれちょっとすごいよ。うちの狭いリビングが、ゴーグルつけるだけで京都のザザーっと広い雅なお座敷に行ける。崖からビヨーンと飛び降りることもできるし、空も飛べるんだよ。


会話には、<母>とのやりとりにはない一種の緊張感があり、それは、相手を怒らせてしまうかもしれない、という危惧の故だった。


自分の発言に対して相手がどう反応するかある程度の想像はついても、予想外のことももちろんあるよね。「そういう意味じゃないのに」とうまく伝わらなかったり。

それによって嬉しいことももちろんあるけど、もどかしさやストレスにもなる。でもそれが人と人とが出会い、時間をかけて親しく知り合っていくことの醍醐味でもあると思う。


人間同士だとこれは当たり前に起こる出来事だけど、対AIだとかなりその可能性は低くなる。

この<母>は息子の記憶を主なものとして作られているんだよね。だから、息子の知る<母>の姿が完璧に再現できたとしても、それはその女性の<母>として見せていた一面の再現でしかない。


そしてリクエスト次第で否定的なことをほとんど言わないようにチューニングすることもできる。



「朔成君もやってみる?<縁起Engi>っていう、壮大なアプリなんだけど。」

これは仏教の「縁起」、この世のすべては相対的で、一切は空(くう)だという考えを体験できるアプリだそうです。すごくヒーリング効果がありそうだけど、没入感がありすぎて、それが良いふうに出ればいいけど(宇宙の長い時間の中で、今生きているのは一瞬なのだから、小さなことにくよくよしないで失敗や成功にこだわらずに何でもやってみよう、とか)ネガティヴなときは「こんなにちっぽけな存在なのだから生きている意味もないのでは?」と、虚しくなりすぎてしまいそう。


「それで、試験的に、弊社のVFのレンタルを施設向けに開始したんですが、予想外に好評で、本当に、一日中、会話を楽しんでくださってる入所者の方もいらっしゃいます。」


介護施設にもVFが参入している世界線。肉体的にも心理的にも疲弊する職種だということはむっちゃんもよく知っているでしょう?介護ロボットというフィジカルをサポートする役目だけでなく、入所者のメンタルケアにもとても効果がある。


孤独は老化を早めるし、疲れてイライラした職員さんに対応されるよりも、いつも一定の心を保った話し相手の方が安心するだろうね。


人間が人間のペットとなってはいけないだろうか?愛犬家や愛猫家は、ペットを自分の「本当の家族」として大切にしている。だったら、どうして人間が「本物の家族」としてのペットではいけないのだろうか?・・・


ペットという表現はよくないのかもしれないけど、人が動物を飼うときには「家族の一人」として迎え入れるでしょう?それと同じように、VFをペットのように考えることはいけないことなのか?と考えている場面。


ペットとしての動物の存在がどういうものか、愛情を注ぎたいとか、かわいい生き物と一緒に暮らしたいとか色々あると思うけど、言葉を交わせない動物との間にでもある種の「愛情の相互作用」を感じるのだから、VFも同じような存在になりうるのではないか?ということが言いたいのだと思う。倫理的な壁もあるだろうね。



そういう時には、言葉しかダメだって、どうして決めつけるんですか?誰が考えたことですか、それって?
僕は、自分の理屈で納得できないことは、信じないんです。


登場人物の一人に身体が不自由なイフィーという人がいて、仮想空間で使えるアバターの有名なデザイナーでお金持ち。ふだんは豪邸に引きこもっているけど、主人公のおかげで楽しいクリスマスを過ごせたの。


そのお礼としてたくさんのお金を渡そうとするから、純粋な好意をお金に換算されたようで主人公たちはとまどう。

でもイフィーの中では、好意と言葉にお金で応えることは自然な感覚。行動する事が得意な人がいれば、お金をつかう事が得意な環境の人もいる。どちらも純粋な喜びからくるものなのに、お金が絡むと興醒めされるのは納得いかないよ!って感じ。

これもすごく考えさせられた。お金はとても大切なものだけど、お金を持っている人だけが素晴らしいわけではない。どの人間もそれぞれの人生を生きる上で得意な事があるはずだから、対価については各々が納得するバランスでやり取りをすればうまく世の中がまわるんじゃないか?って。



問題は、「生きるべきか、死ぬべきか」ではなかった。方向性としては、そう、「死ぬべきか、死なないべきか」の選択だった。


これは自由死が認められている世界だからこそ出てくる考え方。いつでも死を選べる状態だと後者の選択の意味合いが強くなってくると思う。

個人的には、本人が「もう充分に生きた」と思ったら自然死を選べる自由があるといいなと思ってる。若いころから希死念慮がある人や、ちょっとつまづいただけという人が安易に自由死を選ぶことには反対だけど。でもやっぱり判断が難しいかもしれないね。


死が恐怖でなくなればなくなるほど、相対的に、僕たちの生は価値を失ってしまうだろう。この、どうせいつかはなくなる世界を、良くしたいという思いも。一体、この生への懐かしさを失わないまま、喜びとともに死を受け容れることは可能なのだろうか?


人が亡くなると親しい人はとても悲しいけど、そこから何かを考えて自分の人生に活かしたり、何かしらの影響があると思う。


仏教的な考えかもしれないけど、そうやって不確実な時間の中で巡り合うご縁があって、失って、でも人生は続いてゆく・・・そういうことの繰り返しが「生きる」ということじゃないかなと思う。


刹那的に生きるつもりはないけど、生きていることへの感謝の気持ちや素晴らしさやおもしろさはいつまでも感じていたいなと思うよ。


そのちいさな連続が生の価値だと思うし、良く生きたいという気持ちにもつながっていると思う。


他にも面白いエピソードがたくさんあるんだけど、このへんにするね。


夏になったら、また一緒にトウモロコシのピザを食べに行きたいな。


生きている私たちが五感のぜんぶを使って楽しめることをたくさんしよう!


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