ねつのあとに かんそうぶん


映画を観てきます
面白かったらおすすめしますね

 たぶん私は誰かに映画を観にいくことを伝えたかったんだと思う。よくしてくれる先輩に唐突に謎のメッセージを送って、『熱のあとに』を観にいった。


 いまは令和、映画が高い。本当に観たい映画しか観ないことに決めている私はその日何回も自問自答していた。こうなることをなんとなくわかってて、誰かに宣言をしていたのだなあとさえ思った。

 ひょんなことからこの映画の存在を知った。スマホをいじっている時の広告。橋本愛さんが好きで、予告から「自分が好きそうな映画」の類だと感じて、観にいくことにした。公開の前日にたまたま広告を見たことと公開日に観にいけることに運命めいたものを感じたのもある。

 映画館の前に着いてもいまだに私は問う。本当にこの映画が観たいのか。そしてやっと決心がついてチケットを買う。



 橋本愛さんが演じる役に共感するところが多かったがどこかおかしいのだろうか。あるいは橋本愛さんの演技に惚れたか。両方だなあ、と思う。
 「臨時的に生きている」と話す彼女はたしかに「死んだ目」をしている。
 愛について持論を展開する彼女には狂気がある。「私の何がおかしいんですか」
 私は思う。おかしくないんじゃない?と。ただそれを相手が受け止めなかっただけだよ、と思う。受け止めてくれる人を探したらいいのだけれどもそれを受け止めてくれる人はもしかしたら少なめなのかもしれないね、と。
 彼女は確実に変わっていたけど皮肉なことに彼女を受け止めなかった「過去の彼」のせいで退行。
 「生きるために死ぬことも死んだように生きることもできないんです」。私はこの気持ちをなんでわかってしまうんだろう。わかってしまうから仕方がない。
 彼女のストレングスは、結婚相手がいることだと考える。その幸せが見えなくなって、見えなくなってしまうと大切にできなくなる。捨てられる寸前、それでも彼は捨てずにいるけれど彼女はなお応えられない。
 結局、そばに居る人は彼女に何もできないのだろうか。やれることを尽くしても期待せず待つしか途がないと私は受け取ってしまった。待てなくなったら離れるまで。私の場合は、その時が来て離れられてしまっただけ。
 過去の自分と重なるところが映画の端々にあって、心がぎゅっとなった。個人的には映画の終わりはハッピーエンドで、観た後に残る感覚は気持ちが良いものだった。


 面白かったらおすすめしますね

 =おすすめはできません

 私の場合この等式は成立する。何をもって「面白い」と感じるか。はたしてそれは相手の感じる「面白い」と同じか。相手は何を求めるのか。どんな映画を好むのか。考えだしたらきりがなくてそんな私におすすめできる映画なんて存在しない。面白いなと思う映画はたくさんあって、でもそれは「あなたも面白いという保証ができない」。おすすめされるのは好きだけどね、という矛盾もあるけれど。


 あのときたまたま広告を見つけてよかった。観てよかったと思う映画に出会えた宿命に感謝する。

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