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「お茶会へ行こう」を始めた理由

 教授になって、教室を持とう!と考えた訳ですが、弟子は居ない、周りに茶道を習いたいという人もいないという状態からのスタートでした。

 どうやったら弟子を集められるか?と考えている中で、母が「未経験者向けにお茶会を開いてみたらって言ってたのをやったら?」と。

 これはまだ私が教授を取る前に、師匠の姪弟子の席持ちのお手伝いをさせていただいている頃に母が言っていたもので、私の茶友も大賛成!と言ってくれていたものでした。

 では、弟子も居ないし、やってみよう!ということで始めたのです。

 では名前をなんにするか?という話になり、「そうだ!京都に行こう!」というキャッチフレーズがニュアンスとして近いよね!そんな気持ちでお茶会に行くための練習の場になればいいよね!などと話したことを覚えています。

 名前はすんなりと「お茶会へ行こう」に決まりました。

 あとから考えますと、「お茶会へ行こう」と考えるのは茶道を習っている人たちであることが判明するのですが、出だしの頃は「未経験者歓迎!」の言葉に多少は来てくださいました。ただ、習ってない人のほうが、理想?が高く、洋間に畳を敷いただけの稽古場ではがっかりした顔をなさっていたのを覚えています(苦笑)

 この頃、濃茶をやりたかった私は三月に一度濃茶の月にして、薄茶・薄茶・濃茶と一年ほど続けました。

 なかなか濃茶の回は人が集まらず、苦労したものです(笑)

 Facebookでイベントを立て、毎月綱渡りの道具集めをしながら形を模索していました。最初の頃は物語が上手くつけられず、妥協の連続。その中で、茶杓師・安住樂風氏の茶杓には大変助けられましたね。

 年々道具は集まり、棚物数寄とか、建水大尽とか呼ばれるようになった頃から、いらっしゃる方々が変わってきたように思います。

 3年目から現在の形式である「濃茶+薄茶」にしました。

 これはある意味「菓子の茶事」と呼ばれる形態です。稽古茶会なので、お炭はせず、濃茶と薄茶の点前をする5人ほどの会です。

 お陰様で、八年目を迎えております。

 相変わらず弟子は少ないですが、弟子がおらずとも茶会はできますし、添釜もさせていただけるようになりました。

 数年前、豊橋の数寄者・鬼佛庵さんが初釜にいらっしゃって「懐石できますね!お茶事をやってほしい」ということで、「お茶事へ行こう」も3ヶ月に1回の割合で催すことになりました。

 それ以後、懐石家具も揃えるよう心掛けています(まだ揃ってないですが)。

 そこに来て、コロナ騒動。

 緊急事態宣言で数ヶ月休んだものの、江戸時代に疫病が流行っても茶会は取り止められなかったことを知り、「こんなことではいかん!伝統文化はやらなきゃいかん!」と、再開を決め、今日まで続けております。

 今後もこの会を続けて行くつもりでおりますが、それには理由があります。

 それは、「多くの教室が点前偏重であり、客振りを教える稽古の場がない」と感じるからです。

 特に正客などは、経験しなければ上達しません。私なども今では普通に正客をしておりますけれど、最初の頃はしどろもどろ(笑)

 それでも正客に上げ続けてくださった柳営茶会のお席主さまたちのお陰です。

 特に御家流の先代宗家安藤綾信公とご息女で当代の綾冠さま、鎮信流宗家松浦宏月公、小堀遠州流宗家小堀宗圓宗匠には可愛がっていただいております。

 流派を超えて後進を育てる気風や千家では感じられない道具は流儀を超える柳営茶会の闊達さや物語の重厚さに恵まれたお陰で、私はこれまで以上に自由に道具を組み合わせる術を学ばせていただいた気がします。

 だからこそ、点前を学ぶだけではいけない!と強く思うのです。

 それには、客稽古の出来る場を作らなければ!と思い、続けてまいりました。

 ご賛同くださいます方がいらっしゃれば、是非、あなたの街の「お茶会へ行こう」を催してください。

 流派を超えて、切磋琢磨することがこれからの時代に必要なことと存じます。

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