「審査員賞受賞作品」は間違いない説//「熊は、いない」(NO BEARS)/ジャファル・パナヒ監督作品
こんにちは。noteにしっかり書くのは久しぶりです。
特に拙作の短編「かの山」が第78回ベネチア国際映画祭のオリゾンティ短編部門にノミネートされ、ベネチアへ行き、新しい世界を見聞きし、途方に暮れていました。ありとあらゆる価値観の嵐に揉まれ、2年経てようやく元の位置に戻った気がします。たぶん。
「かの山」から得た経験は、映画を志す人、映画祭を狙う人、未来の私、過去の私にも役立つ情報もあると思うので、近々upさせてください。製作開始から現在まで、リアルタイムで書き残していたものを少し精査してお届けできればと思います。
ここで改めて思うのは、演出力だったり、審美眼だったりを育てる大きな鍵は「映画を観る」ということです。観るだけでなく、感覚が生々しいうちに感想を残しておいた方が良いと、映画鑑賞の備忘録を再開することにしました。
再開一回目は、パナヒ監督「熊は、いない」。
去年のFILMeX上映を見逃し、いつか日本で上映してくださいと神に祈っていた作品です。とはいえ、パナヒ監督は名前しか存じあげておらず、「これは映画ではない」が話題となったときもタイトルで素通りしてた。
はい、勉強不足野郎は私です。
今回は、「ベネチア国際映画祭で審査員賞を受賞した」と聞いて観に行きました。審査員賞は、だいたい私の思う「面白い」の枠に入るからです。
それ以外は全く予備知識がなく観に行ったのですが、逆にそれが良かった気がしています。見ようと少しでも思っている方はこのnoteを読まずに映画館へGOすると良いかもしれません。
「熊は、いない」概要
あらすじ
キャスト・スタッフ
社会派と言われているが、一見コメディ風
パナヒ監督が、どの国の方さえもわからずにいた私。まず最初の方でキアロスタミ監督の雰囲気に似ているな、と思いながら見始めました。社会派映画と聞いていたものの「イランの社会派映画って、こんなにほっこりしているのか」とクスクス笑う場面が度々登場。隣に座っていたおばさまが「ほ〜」とか「え!そうなの?」など、独り言を発していたのもホッコリ要因のひとつかもしれない。
一方で、構成が3つに分かれていることに割と冒頭で気づきます。
1. カップルが、どうやら<国外へ亡命(?)>しようとしている
2. パナヒ監督がイラン国境近くの町で<身を潜めながら>遠隔で1についてのドキュドラマ映画を撮っている。
3. パナヒ監督が過ごす町には「<監督にとって些末な>しきたり」があり、そのいざこざに巻き込まれる。
国外への亡命。身を潜めている。感覚にとって些末なしきたり。
その三つがフィーチャーされており、何やらイランという国が舞台で、国に対する問題点を描こうとしているな、ということがわかる。
「それぞれ3つに別々の結末があるんだろう」と思って映画を見続けるわけですが、あまり深刻な雰囲気は漂っていません。むしろ楽しげなので「市単位でも、国単位でも、社会にはいろいろ問題があるよね」とのんびり気楽に見ていました。
パナヒは「街」を描く天才
本題はネタバレを含むので、いきなり脱線しますが…
この作品の好きなところを告白してしまうと、 パナヒ監督の「街の描き方」だったりします。冒頭は長いワンカットで、どんな街にどんな人がいて、どんな生活をしているか、歩き方や表情、流れている音、話すテンポなどで見えてくるのです。
ワンカットだからそうなるのか。
と思いつつ、かっちりタイミングと演出を施されて、そのカットがよく考えられて「構築されている」。つまり、演出にしっかり意味があることがよくわかるファーストカットなんです。ガッツリ胸を鷲掴みされ、この監督からは「人の撮り方」「街の撮り方」を学ぼうと、そればかりに集中して観ていました。
「街の撮り方」は私自身、テーマにしているところでもあります(とコミットした方がいいかと悩んでいる)。「熊は、いない」は物語の核となる部分以外は、登場人物たちとの程よい距離感で撮られ、編集に恣意性が低いのが印象的です。
「恣意性が低い」というと、語弊があるかもしれないけれど、人物が話すときカットバックが続き、何やら意味があることを言う時は真っ直ぐカメラ目線。みたいな、そういう「よーしこれが大事なところだ!みてろ!」みたいなゴリゴリ感がない。(それが面白い作品もたくさんあるので、良い悪いでは無い)
「熊は、いない」では、カットは人の動きに合わせて変わり、人々が歩いて何かしら行動する場面が多いので、背景でまちがよく見える。「人が街にどう馴染んでいるのか」よくわかるように撮られているように感じた。実景が挟まれていないのも「恣意的でない」と感じた一因とも言える。実景を入れないのが恣意的とも言えますが、まあ、それは置いておいて。
街は、風景を撮ることで「撮れる」わけではないのだな、と。
そこに住む人々が、どんなテンポで会話をし、何を気にしていて、どんな人が権力を持って、何を食べてるか。人々の営みが、いかに景色に溶け込んでいるか。それが「街」になるんだ。それがよくわかった。
当たり前のことを言っている、と思われるかもしれません。
だけど、その当たり前なことを「恣意的でなさそう」物語の中に盛り込むのは、非常に難しいのです。少なくとも私にとって。
でもドキュメンタリーだと、それがなぜか可能。なぜなんだ!なぜドキュメンタリーだと、それが可能なのか…!そんなことをいつも考えている私に、この作品を見ることで、仮説がたちました。
ドキュメンタリーは延々と回し続けた素材から「意味ありげ」な言葉や映像素材を抜粋。編集されていく。
「意味ありげ」の「意味」の中には、そういった人々の営みや、会話のテンポ感、ふと言葉の裏に隠れた価値観などが含まれているから選ばれる。だけれど、「人々の営みオンリー」の情報は省かれることが多い。何かしら、物語に終結する要素が他にないと、「使えない素材」になりがちです。
脚本の段階から「人々の営み」プラス「物語に終結する要素」をシーンに含めるのは難しい。説明的なセリフで段積みする方法もありますが、それを面白いと思わせるのは至難の業です…と書きながら、脱線しそうなので、また別の機会に書かせてください。
兎にも角にも、この作品の個人的ズキュンポイントのひとつは「人の描き方」や「街の描き方」でした。
でも、それだけでは「いわるゆ面白い」作品は完成しない。構成が大きなポイントだと思うのですが、それはネタバレに関わることなので最後に書きますね。
パナヒ監督とは誰か
この作品の大事な要素として「パナヒ監督が自分役で出ている」ことがあります。作中では、監督自身、政府から?身を潜めなくてはならない状況であるのがわかるのだけど、実際のところどうなのでしょうか。
監督のプロフィールを調べてみました。
かなり国に翻弄されてきた、戦う映画監督であることがわかります。オフィシャルサイトには監督のこんなコメントもありました。
このコメントを読んで「社会派映画」について、自分が常々感じている違和感の正体が頭角を表してきました。
社会派であることから逃れられない
正直、私は「社会派」映画がちょっと苦手です。
集客や映画制作実現ための道具として「社会問題」を使用してると感じることが多く、説教と偽善要素を見つけてしまう自分がいるからです。でも「熊は、いない」はそういう映画とは一線を画してします。
そもそもイランでは、FacebookやTwitter、YouTubeは禁止されていて、政府が情報統制したながら国民をコントロールしたい国のようです。
例えば去年イランでは、ヒジャブを着用しない女性が警察に拘束されて死亡する事件があり、大規模な抗議活動が行われました。活動の様子や、治安部隊と抗議者が衝突する様子がネットに出回りましたが、政府がインターネットやSNSを遮断しました。(その大きな理由は、2019年に開設された、抗議デモを記録している@1500tasvirというinstagramアカウントを人々の目に晒さないようにしているという話もあります)その遮断されている間、見えないところで抗議活動を暴力的に鎮めようとし、十数名以上が何らかの形で死亡したそうです。
そんなイランで、パナヒ監督は身動きとれない状況になっています。彼の作品は政府にとって有害で、パナヒ監督自身、身の危険に晒されていることも想像ができます。でもパナヒ監督は国外へ出られない中、作っちゃいけない映画をこっそり撮って、国外で発表しているのです。
命をかけて映画を撮っている。
精神論とか、そんな者ではなく文字通り、死ぬかもしれない状況で撮り続けているのです。そんな人が撮ったと分かって「熊は、いない」を見ると、映画が「面白い/面白くない」という軸で語りづらくなってしまいます。
社会派映画はここが「危うい」。面白くないって言っちゃ行けない気がしちゃう。乗っかってる情報がありがたいのだから、映画としてどうだみたいな小難しいこと言うなよ、みたいな気にもなる。
でも「熊は、いない」は、監督が「普通の映画」は撮りたくとも撮れない環境で、社会派であることから逃れらない、ということがグサッと鋭角にナイフが入ります。
「社会派をふりかけみたいにかけた作品だ」と敬愛する某映画界のドンがとある作品についていつか語っていました。その時は言い得て妙だな、と思ったのですが、「熊は、いない」は間違いなく「ふりかけ」作品ではありません。
構成から見えるもの
ここからはネタバレを気にせずに描きますね。
先ほど、この作品は三つの構成に分けられていると書きました。
1. カップルが<国外へ亡命(?)>しようとしている
2. パナヒ監督がイラン国境近くの町で<身を潜めながら>遠隔で1についてのドキュドラマ映画を撮っている。
3. パナヒ監督が過ごす町には「<監督にとって些末な>しきたり」があり、そのいざこざに巻き込まれる。
それぞれ、どういうエンディングを迎えるのかを追いながら見る建て付けになっています。つまり、こんなことを気にしながら私たちは見ている。
カップルは果たして国外へ亡命できるか。
パナヒは映画を安全に身を潜めたままでいられるか。
街のいざこざは終息するか。
「どう収束するのかな」とワクワクしつつ、途中、パナヒ監督がいつも蚊帳の外/フレームの外側にいることが気になり始めました。
映画を撮っているが監督は現場におらず、カップルと接するときはモニター越し。街のいざこざに巻き込まれはするものの、結局はいつも外部者なのです。
これはどういう意味なのかな、と思いながら見続けているとこんな結末を迎えます。
女性が男性に嘘をつかれ、亡命する前に自殺してしまう。
パナヒは街から追い出されてしまう。
いざこざの首謀者(若者)が、越境しようとして射殺される。
つまり、それぞれ失敗に終わるのです。
3の結末が、あまりにも衝撃的過ぎて放心して映画は終わりますが、この映画の意味することが「国はひどい」ということではない気がしました。(私がパナヒ監督の境遇を知らなかったというのもあります)
最後のシーンが少し変だからです。
パナヒ監督が、いざこざ首謀者(若者)の死体発見現場を車で通り過ぎたとき「車から出てはダメ」と街の人に止められます。「そのまま街から出てほしい」と。このシーンに私はめちゃくちゃ違和感を覚えました。しかし、この違和感の意味がわかりません。
そして最後に映画製作者へのエールが監督から捧げられます。詳細な文言を覚えていないのですが、「取り続ける君を私は応援するためにこの作品を捧げる」
みたいな文字が登場して終わるのです。
???
エールなの?ん?パナヒさんのことを私が知らないから?
と混乱し、改めて結末を整理しました。
信頼されている人間からの裏切りが、人を死に追いやる。
為政者から身を潜めるには、むやみに活動しては行けない。
街の制約から逃れようとすると、外部から命を取られる。
これが私が解釈した、構成に込められた意図です。
映画現場や国、小さな町を一つの社会として描いていて、その社会は外部と内部の圧倒によって成立している。
見えない境界線は、内部と外部によって保たれてる、というイメージが湧きました。そして、その境界線を越えると命を取られる。
パナヒ自身もカップルの映画を撮影する「権力者」です。そして、台本通りに撮影しようとする先で、女性を死に追いやってしまった。
一瞬
「人は誰もが、コントロールされる・する立場にいるのだ」
という話なのかな、と思ったのですが、それだけではなさそうです。
次に、タイトルの「熊は、いない」の意味注目してみました。
思い出すのは、タイトルに由来するシーン。
「熊」は、街の人がパナヒをコントロールしようとする人のセリフに登場します。
本当は熊なんていないのに、「熊が出るぞ」と街の人は、いざこざを収束させるためパナヒ監督を怖がらせて誘導するのです。
私自身、子どもがワガママで手に負えない時があると「鬼が出るぞ」と言ってしまったりします。そういうやつですね。
で、「熊は、いない」の意味は何か。
いないはずの怖い存在をちらつかせて、相手をコントロールする…。
つまり、この作品においての「熊」は、人間が勝手に作り上げた「国境」や「境目」の向こう側にいる「恐ろしい存在」。勝手に熊を作り上げて、本当は存在しない境界線を強化しているのだ、と解釈するとどうでしょう。
この作品におけるパナヒ監督が車からでないのは、つまり存在しない熊がいると言われてるから。熊がいるぞ、と脅されて、身動き取れない状況にさせられてるのです。
そうすると、最後の、映画製作者へのエールの意味がよくわかる。
この車の中から出ろ!撮れ!
「熊はいない!」
と言っているのではないでしょうか。
まとめ
というわけで、「熊は、いない」は面白い映画でした。
意味もわからず見ていたのに、めちゃくちゃ勇気が湧いた理由が
こうやって分析してわかったような気がします。
ベネチア国際映画祭の審査員賞を受賞した作品は面白いという仮説が、また強化されました。
(「また」の意味はいずれ書きたいと思います)
ベネチアから戻って数多くの熊がチラついていた私は、少し元気になった気がきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?