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短編小説『琺瑯』

会社を出て駅までの道を歩いていると、左の道から三十代半ばくらいの女が出て来て私の前を歩き始めた。長いスカートの裾から細い足首が見え、左右の脚が前後するたびに、周囲がちかちかと発光している。よく見ると、小さな蝶が一匹ずつ留まっていた。蝶は女の歩調とは無関係に、羽を閉じたり開いたりしている。自転車屋の前を通り過ぎる頃にはその光の強度は増し、時折黄色い眼鏡や緑色のカニ、水色の枝、赤いアルファベットのNといったものたちが浮かんでは消えていった。その美しさに見惚れていると、突然大雨が降って来た。私が空に目を遣った隙に女は駆け出し、蝶はどこかへ飛んで行ってしまった。
傘を持っていなかったので、雨宿りしようと目の前にある建物に入った。小さな映画館だった。こんなところに映画館があるとは知らなかった。この雨ならじき止むだろうと思い、それまでの暇潰しに映画を観ることにした。「上映中」の文字と共に掲げられたポスターは、どれも見たことも聞いたことも無い作品ばかりだった。薄暗い券売所で、ぼんやり椅子に座っている店員に、最近封切りされたのはどれかと訊くと、やはり耳馴染みのない作品名を呟いたのち、ハンガリーの映画です、という説明が付け加えられた。他に興味をそそられるものも無いので、その映画を観ることにした。
売店でビールを買い、暗い場内に入った。観客は私を除いて二人しか居なかった。間も無く映画が始まった。雪深い道を馬車がゆっくりと進む映像の上に、俳優や監督の名前が順に白い飾り文字で映し出されていく。モノクロ映画だった。後ろから五列目の、出口に近い側にある席に座り、煙草に火を点け一口吸う。
年老いた男が、年老いた馬の手綱を握り、薪を載せた荷車を曳いている。その様子をただ左から写した場面が続く。枯れ葉と乾いた土の上を車輪が踏みしめていく。やがて石造りの粗末な家屋が現れる。その横には馬小屋がある。荷車を外すと、小屋の中に馬が入っていく。男が柵を閉める。馬の干し草を食む音。冷たい外気に白む呼吸。隙間風。馬が首を振る。何回かに分けて、黙々と荷車に載せた薪を家に運ぶ。それを終えると、襟巻きを外し、外套と一緒に壁に掛ける。箪笥の前に屈む。床板を外す。煤けた酒瓶を取り出し食卓に就く。卓上にはホーロー製の傷だらけのコップと、パンのかけらがある。男はコップに酒を注ぎ、口に運ぶ。硬そうなパンを千切って食べる。
私は少しの酔いと疲労を覚えながら、淡々と続く静かな映像に退屈し、居眠りし始めていた。ふと目を覚ますと、スクリーンの中に忽然と、大人びた少女が登場していた。少女は毛皮を羽織っている。寒さに震える両手で、大きな酒瓶を大事そうに抱えている。少女は眠るように酒を飲む男の顔を見つめている。胸から上が映る。か細い指には不釣り合いの、貝殻のように大きな石の嵌め込まれた指輪が右手に光る。彼女はこの角度から見ると、まるでほんの小さな子供のように見える。目を伏せると一気に十は歳をとったように見える。手を動かすたびに指輪が異なる輝きを放つ。この冬に齎された唯一の光。夢の中に、先日飲み屋で隣の席に居た女が出て来た。女は青っぽい服を着て、浜辺で何かを探しているふうだった。女の後ろにパラソルが一本立っており、その下に母親と思しき人が座っていた。女が湿った浜に屈むのを見て、母親は顔を顰めた。女の着ているワンピースが泥で汚れた。少女は酒瓶を差し出した。男はかわりにパンを渡し、それから死ぬまで彼女に触れなかった。

十八年が経ち、私はようやく目を覚ました。女はとっくにあの浜辺で探し求めていた石を拾っていた。冬だった。雪の降る夜に彼女はその石を売り、売った金で上等の酒を買った。私は彼女のことをとても愛していた。愛し合う二人は雪深い道を馬車に乗って進んでいた。風が吹き、木の扉が揺れる。フイルムを巻く音。酒瓶の蓋が開く。マッチを擦る。煙が小さなスクリーンを覆い隠す。昨日の雨が降る。馬が首を振る。水色の枝が雨に濡れたアスファルトに沈む。少女の母親はあの馬小屋で死んだ。私は居眠りをしていたせいで見逃した。とても重要なシーンだった。しかしそれを知らないことは、女を愛する上で何の問題にもならなかった。

無職を救って下さい。