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パナシェ/男と女/内田百閒

シネマヴェーラで若尾文子の出ている『涙』いう映画がかかっているというので渋谷へ繰り出した。上映時間まで1時間程あり、空腹だったため食事するべくドゥ・マゴに入った。喫煙はテラス席のみ可能とのことで、少し肌寒かったが仕方無く屋根の下、柱の近くにある席に座った。テラス席にはわたし以外誰もおらず、中庭に植えられた植物に雨の当たる音と、どこか遠くで女の人の歌う声が微かに聞こえた。カミングスの詩の「雨よりも優しく触れるその手よ(nobody, not even the rain, has such small hands.)」という一節を思い出した。
パナシェを頼むと、輪切りのドライレモンが載った美しい酒が出て来た。目の前の光景というのか、自分を含めた場、状況に感動し、映画どころでは無くなってしまった。その後ペペロンチーノと赤ワイン、最後にコーヒーを頼み退店、映画館には行かず帰宅した。

下北沢のライブハウスに行った。ここに来るとやはりカレーが食べたくなる。下北沢にはかつて大学の友人が住んでおり、彼女の家が北口にあったので癖でそちらから出てしまったが、カレーが出て来るのを待つあいだライブハウスの場所を調べてみると南口にあることが判明、歩くのが面倒だと思った。確かに以前違うライブハウスに行った時も南口だったし、ギターを背負って歩いている人や劇団員風の人たちが屯しているのは南口の印象が強い。
カレーを食べハイボールを2杯飲み、急ぎ足でライブハウスへ向かった。到着すると、目当てのKLONNSは既に始まっており前のほうに行けなかったが、後方で楽しく聴いた。その後kumagusuとstrip jointの演奏が続いたが、胃もたれなのか徐々に具合が悪くなってきて入り口の辺りで蹲りながら、「どうか……」と不在の神に祈ったり、舞台の様子が見えるギリギリの位置までヨボヨボ歩いて行ったりを繰り返した。
転換のたび、少しずつ移動していたが背後に同じ男女が会話しているのが聞こえた。女は菊池桃子のような声と話し方で、男は若者らしい間延びした話し方だったが選ぶ語彙にはどこか知性が感じられた。二人の会話を聞くでもなく聞いていたつもりが、途中から真剣に聞き入ってしまっていた。というのも明らかに男は女に好意を寄せており、女のほうは全くその気が無いというのが分かったからだ。男は何度も「最近何してるの?」「学校辞めたらどうするの?」「バイトしてるの?」「最近何してる時が楽しい?」などなど手を替え品を替え女のことを知ろうと問い掛け続けるが、当の女は「えー」「いろいろ」「なんだろ」「わかんない」とへらへら笑いながらはぐらかすばかりで、何一つ具体的な情報を開示しない。男も痺れを切らしたのか「最近いい人居ないの?」と直截的な質問をしてしまうが、それに対しても「居ないかなあ。今は友達と遊ぶのが楽しいから」という、お前が彼氏になることだけは絶対無いよのオブラートに包んだ表現をされ、「きっとすぐ出来るよ、彼氏」と不貞腐れる。「うーん、出来るとかじゃなくて、今はこの状態で満足しているから」「あ、うん、そうだよね……それは分かってて、分かった上で、なんていうか……」女の気持ちも男の気持ちも痛いほど分かるだけに何とも居た堪れない。
そうこうしているうちに演奏が始まり、やがて終わる。最後、Klan Aileenの出番を待つあいだ、またしても後ろに件の男女がやって来た。会話から、彼らは一度付き合って別れたらしいことが判明した。
さすがに振り返るわけにはいかないので、二人の容姿を勝手に想像する。女は身長が156cm、肩くらいの長さの黒髪を一つに結んでおり、色白で、黒地に白い小花柄の、スタンドカラーのワンピースを着ている。男は身長169cm、短髪で前髪を横に流していて、やや歯並びが悪く頬の辺りに少し面皰の跡があり、淡い水色っぽいティーシャツに黒のスキニーパンツを穿いている。
男は酔ってきたのかクダを巻き始めていた。「質問してもさっきから何も教えてくれないじゃん」だの「誰かいい人見つけてくれたら俺も諦められるからさ……幸せになってくれたら……って、これは俺のエゴだよね」だの言い、女はあくまでも「優しいんだね、ありがとう」と当たり障りない残酷さで男を締め出している。やがて男が「俺は本当エゴばっかりで駄目なんだよ、優しくなんて無いし。こういうところがすげえ嫌。もうやだ、どうすりゃいいの。病みたくても病めねえし」と自暴自棄になり、とうとう女も「あのさあ」とやや低い声、呆れ返っている気配、後戻り出来ない拒絶、その場を立ち去る音が聞こえた。わたしは咄嗟に振り返った。「Klan Aileen聴いてから帰りなよ」と伝えたかった。しかしどの男女が彼らなのか分からなかった。わたしはよくある男女のよくある会話のために踊った。

最近あまり映画を観る気分にならない。いつも寝不足で、映画を観ていても途中で寝てしまう。2時間、3時間もジッとしているのは非常な体力を要する。その代わりなのか、読書と音楽が丁度良い。大学生以来海外文学ばかり読んでいたが、昨日から内田百閒の『東京焼盡』という太平洋戦争中の随筆を読んでいる。終戦記念日があるためか、夏と戦争とのイメージは自分の中で分かち難く結びついており、図らずも時候に合う選択となった。
形式はごく普通の随筆というか日記で、徐々に食べる物が無くなっていく様子や、毎日昼夜を問わず鳴り響く空襲警報に、百閒が次第に衰弱していく過程なんかは痛ましいこと限り無いが、そんな中でもとにかく隙あらば酒を飲んでいて面白い。当時は貴重な酒を娘や友人知人が頑張って見つけて分けてくれるのに、貰うとすぐに飲んでしまう。大事に飲もうという気持ちが微塵も感じられない。酩酊するほど飲んでいる。確かに後生大事に飲酒しても仕方がないのだが。体調が悪い時でさえ「それにつけても麦酒かお酒があれば血のめぐり調へる事が出来るのに、うらめしやそれが無い。」などと書いている。そこまで言われるとな……と思いながら、今夜は飲むつもりでは無かったのに、近所のスーパーで久し振りに日本酒を買って飲んだ。美味しかった。
当然だが、海外文学に比べて日本文学は意味を含まない言葉や文章の美しさを享受しやすい。曲がりなりにもドイツ文学専攻だったため原文をあたるという行為はしたことが何度かあるが、美しい意味を持つ文章に感動することは出来ても、登場人物の動作や所作、使っている道具の材質・質感などの描写に何かしらの思いを抱くことは難しかった。その点、百閒の随筆は、一文を抜粋して未読の人を惹きつけるような明快な“面白さ”こそ無いが、淡々とした日記文であるにも拘らず、こんな文章を書くのは一生不可能だなと思わせられるほど文章の美しさが分かる。
先日、『イーダ』というポーランド映画(うろ覚え)のライティング(照明のほう)に関するネットの記事を読み、自然光だと思い込んでいた光が監督らにより緻密に仕組まれた人工の光であることを知った。このことと、上に書いたこととは少し似ている。母語以外のあらゆる言語で書かれた文学の美しさを、自分は自然光だと思いながら看過していくのかと思うと果てしない気持ちになる。

無職を救って下さい。