見出し画像

ボリス・ヴィアン『心臓抜き』──心臓は停止し、天国は閉ざされる

『心臓抜き』(L'Arrache-cœur:1953)は、改題される前の草稿では『女王と小娘たち』というタイトルであった。またこの段階では、著者ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920-1959)自身の自伝的要素が強い作品だったという。クレマンチーヌは彼の母親であるイヴォンヌの面影が色濃く投影されており、クレマンチーヌ=イヴォンヌはまさに「女王」として三人の子供たちに権力を振りかざすエゴイスティックな悪の存在として描かれていたのである。
しかし、完成した『心臓抜き』では、ジャックモールがクレマンチーヌの行動を「これは一つの情熱だな」と感じる様子や、司祭が彼女を「あの女は聖女です」と評する表現が描かれている。クレマンチーヌの子供たちへの束縛は、子供たちを苦しめる狂気や悪としてだけでは無く、彼らを守るための聖なる愛でもあるという多義的な読み方が可能となる。その多義性をより強めるためには、『女王と小娘たち』というあからさまなタイトルを変更する必要があったのも想像に難くない。
では、なぜヴィアンは『心臓抜き』という、本文中には登場しない造語をあえてタイトルに採用したのだろうか。「心臓」という語がこの小説に於いていかなる機能を果たしているのだろうか。以上の点を中心に据え、『心臓抜き』という多義性を含んだ小説の一側面を考察していきたい。
 
そのためにまず注目したいのが、この小説全体に散りばめられた宗教的モチーフである。
名前に「死(mort)」を持つ精神分析医ジャックモールは、冒頭で「ソドムの山羊」が居る場所から「非常に高いところにあ」る「白い家」へとのぼっていく。この描写によって、「家」のある場所に天国めいた印象が与えられる。そして、そこに居るのが「聖女」クレマンチーヌと、天使と同じ響きを持つアンジェルである。
産婦人科医では無いにもかかわらず「家」に居候することになったジャックモールは、「家」と村を何度も往復するようになる。この往復は、さながら心臓から循環する血液の流れのようである。ラ・グロイールの居る「赤い小川」をはじめとした、随所に現れる「赤」という色もまた血液を連想させる。このように、『心臓抜き』で描かれる世界を身体内部と見立てると、物語の心臓となるのは聖なる「家」で間違いないだろう。
心臓病を患っていたヴィアンにとって、心臓という臓器が天国=死に最も密接に結びついており、『日々の泡』(L'Écume des jours:1947)などでも繰り返し用いられたモチーフであったという事実からもそれは伺える。

ここで皮肉なのが、天国と地上とを行き来する者が司祭では無く精神分析医である、という点である。1970年代末から、ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard, 1924-1998)がいうところの「大きな物語」の終焉が人口に膾炙するようになったが、ヴィアンはリオタールより20年以上早い時点でそれを予覚していたのかも知れない。宗教という「大きな物語」は終わり、精神分析を始めとする科学がそれに取って代わった。
『心臓抜き』の村民は日曜に行われるミサにきちんと参加し、洗礼の儀式も残っているようだが、彼らが神に求めるのは、雨や見世物といった即物的な内容ばかりである。そして、ここでまたしても皮肉なのが、精神分析を行おうとジャックモールが女に提案すると、女たちはみな一様に「セックスがしたい」の意だと解釈するのである。これはフロイトの除反応に対する揶揄であろう。
 
また、この小説には聖女も天使も悪魔も司祭も登場するが、肝心の神は不在である。それは、単純に彼らが神を必要としなくなったからである。司祭はいう──

「魂の安らぎなど、よろしいか、彼らはかまっちゃおらん。すでにそいつは持っている!彼らにはラ・グロイール号がある!」

「神はおまえたちをごらんになって、恥ずかしくお思いじゃ……」

あるいはこれらの言葉から、「魂の安らぎ」を与える者=神とするならば、神は不在なのでは無く、かつての神の成れの果てがラ・グロイールだと考えることも出来よう。
神は教会から追いやられ、襤褸を着て、「赤い小川」で人々が投げ込む「恥」を受け取る──誰からも感謝されること無く。このラ・グロイールという神の死によって、新たなラ・グロイールが精神分析医ジャックモールに取って代われるという展開は、上記の「大きな物語」をめぐるポストモダンの世界の潮流と相似をなしている。したがって、ジャックモールが次のラ・グロイールとなる/同化するのは必然であったといえるだろう。

このことから更に、ジャックモールが『心臓抜き』に於いて循環させていた“もの”が明らかになってくるだろう。それは、物語内で何度も登場する「恥」である。
ジャックモールは老人市や小僧への虐待といった村の「恥」を感じ、出産というクレマンチーヌの「恥」に耳を傾ける。やがて彼自身もラ・グロイールへ「恥」を支払うようになるが、同時にラ・グロイールへの精神分析も行うようになる。
ラ・グロイールと同化し始めた彼は、クレマンチーヌとの会話を通し、彼女の「子供をじゅうぶんに愛さなかった」という「後悔=恥」を受け取って行動するようになる。マリエット鳥の心臓が「他の動物たちは平凡な器官を宿している場所全体を占めている」ように、「恥」はそれがために人々を死に追いやるものでありながら──人々は「恥」を支払わなければ「魂の安らぎ」を得られない──、「ひっきょうもっともありふれたもの」でもあるのだ。
 
子供たちへの愛に目覚めたあとのクレマンチーヌは、「恥」や「後悔」という言葉を一切発しなくなる。それどころか、自分の行動は愛に基づくものだから間違っているはずがない、と信じて疑わない。
こうしてあらゆる「恥」を支払ったクレマンチーヌは「格子の門」を閉じる。この「格子の門」が、「恥」とともにラ・グロイールに支払われる黄金で作られているという点も注目に値するだろう。ラ・グロイールは数え切れないほどの黄金を持っているが、何も買うことが出来ない。彼にとってそれは無駄なものなのだ。だが、「したがって、唯一有効なもの」でもある。

これは、「恥」に対しても当てはまることである。「恥」は誰も他のものとは交換したがらず、当人もそのような負の感情は存在するだけ無駄で、必要無いものだと感じる。
しかし、老人市や小僧への虐待といった行為に「恥」を抱くことは、黄金のように貴重なことであり、それらの行為をやめるのに「唯一有効なもの」なのだ。それを閉ざすということは、この「家」では今後いかなる「恥」も生まれないということだろう。そして、「恥」の受け手が精神分析医となった村から天国へと続く道は閉ざされ、心臓は弁で閉じられる。

「心臓抜き」は、『日々の泡』でジャン=ソール・パルトルを殺害する際に用いられた凶器の名称である。これは一つに、母親の狂気的な溺愛は子供への凶器となりうるという暗喩であろう。あるいは、「恥」いう黄金を誰も受け取らず、天国への道を喪失した現実世界の悲劇的状況を表しているのではないだろうか。
『心臓抜き』が書かれた翌年からアルジェリア戦争が勃発する。アルジェリア独立後、フランス政府はこの戦争に対する報道規制を行うようになった。つまり、「恥」を感じることを放棄しようとしたのである。
また、このことと関連して、講義でも大きく扱われた人種差別問題も挙げられよう。人種差別という「恥」ずべき行為は、差別される側の人間にとっては「心臓抜き」という凶器なのである。
本作が完成したのは60年前のことだ。60年という歳月は「たった」とも「もう」とも受け取れる時間である。現在でもこうして世相を投影して読み取ることが可能であるという事実から、少なくとも60年間現実は何も変わっていないといえることだけは確かだろう。


参考文献
ボリス・ヴィアン(滝田文彦訳)『心臓抜き』(早川書房、1979)
ja.Wikipedia.org(ボリス・ヴィアン)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009458616


この記事が参加している募集

読書感想文

無職を救って下さい。