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Fadensonnen

Paul Celan “Fadensonnen”
 
Fadensonnen
Über der grauschwarzen Ödnis.
Ein baum-
hoher Gedanke
Greift sich den Lichtton: es sind
noch Lieder zu singen jenseits
der Menschen.


『糸の太陽たち』
 
糸の太陽たちが
灰黒色の荒野の上空に。
一本の木の
高さを内包した思考が
光の音響を捕捉する、まだ
歌える歌がある
人間の彼岸に。


・パウル・ツェラン(Paul Celan、1920年11月23日 - 1970年4月20日)
旧オーストリア領、現ウクライナ領であるルーマニアのブコヴィナ地方に生まれる。本名はパウル・アンチェル(Paul Antschel/ Paul Ancel)。パウル・ツェランという名前はユダヤ系の本名を隠すためアナグラム化したものである。
第二次大戦中、強制収容所で父母を失う。戦後ウィーンを経てパリに定住。現代ドイツ詩を代表する詩人。遺体はセーヌ川で発見され、投身自殺と考えられている。代表作に「死のフーガ」を含む『ケシと記憶』、『言葉の格子』、『無者のバラ』、『息の展開』、『光の強迫』等がある。 
 
・ユダヤ系ドイツ人であるツェランは、強制収容された父母の死(父は腸チフスで死亡)に大きな衝撃を受け、後年もその体験に苛まれ続ける。彼自身はホロコーストを免れたものの、まさに「アウシュヴィッツ以降」に詩を書く意味を常に問い続けた詩人である。この詩では「es sind noch/Lieder zu singen jenseits/der Menschen.」にそれがよく表れている。詩人は「歌える歌がある」と言っているが、「人間の彼岸(あるいは単に「向こう側」と訳すとしても)」に行ったわれわれは肉体を失っており、歌うことが出来ない。つまり、われわれに残された「歌」は沈黙だけなのかも知れない。それでもなお詩(歌)を書く(歌う)意味とはなんであるのか。

・Fadensonnen:のちの「灰黒色」という暗い風景から、重厚な雲間から途切れがちに見える陽光。
・der grauschwarzen Ödni:誰も居なくなった強制収容所。
・Ein baumhoher Gedanke:無人の収容所に立つ一人の人間。ホロコーストの生き残り。
・Lichtton:糸の太陽がもたらす光。光の音響=無音。光という物質ですら放つ音は沈黙であるというのに、われわれに放つ音=歌は無い。また、この光には天国めいたイメージがあることから、光=アウシュヴィッツの死者だろうか。光と天国の連想から、さらに次の行の「jenseits der Menschen」というイメージが導かれる。
 
・ツェランに対する評価:
Jacques Derrida, 1930-2004(ユダヤ系フランス人)
 「誰でもない者」 に向かうとは、誰にも向かわないことと同じではない。「誰でもない者」 に語りかけること、そしてその都度その度ごとに、比類のない方法で、祝福され得るものは誰もいない。祝福し得る者は誰もいないという恐れを抱いて語りかけること――それが祝福の唯一の可能性ではないのか。自身を確信している祝福などというものは? それはひとつの判断、ひとつの確信、ひとつのドグマだ。
 
Ingeborg Bachmann, 1926-1973(オーストリアの詩人)
 一つの墓標銘、すなわち 『詩のフーガ』 を携えてまず、彼は私たちのもとに表れた、夜の果てまで旅をした光輝に満ちた暗い言葉を携えて。
 
Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund, 1903-1969
 ツェランの詩は極限の恐怖を、口にしないことによって語ろうとしている。その詩の真実内容自体が否定的なものになるのだ。その詩は人間たちの間でも寄る辺ない人々の下にある言葉、それどころかあらゆる有機的なものの下にある言葉を模倣している。死者となる石や星の言葉を。有機的なものの最後に残っていた残骸も除去される。

無職を救って下さい。