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短編小説『セイレーン』


単純な会話。単純な構成の複雑な含みを持った音楽。頭がほとんど使い物にならなくなっているのが分かる。正午と、夕方の四時、夜の六時半の三回、「薬を飲む」というリマインドの通知がわたしのiPhoneに届く。届けられる。毎日。何故なら毎日飲まないといけない薬があるからだ。正しいことが分かる。正しい目で見ている。疑いの目で見られている。罪人を裁くような目で。わたしはとっくにキチガイであると断罪され、毎日仕事帰り、医者の前でこうべを垂れ、望んでもいない罪の告白をした後フェラチオをして家に帰っている。みんなもやったほうがいい。医者のあそこを舐めると"治らないけどよく効く薬"をたっぷり処方して貰えるから。
金髪の、白い服を着て白い靴下を履いた美しい天使。透明のハイヒールを履いて川辺に蹲っている。わたしはその姿を見てうっとりとした気分になる。止めないで。繋いでいて。音楽をずっと、絶対に止めないで。どんなに悲しい時でも、死んでしまいそうな瞬間でも、ただただ美しい音楽を流していて。同じ音の繰り返しでもいい。わたしたちの全く異なる症状で同じ薬が処方されたらロマンチックだ。
同じ木の根に口づけをする。甘いシロップが喉の奥に流れていく。同じ薬の味がする。美しいコントラストの青い薬。赤い革の財布。薔薇の形の縫い取りがある。何度も耳障りがいいだけの言葉を繰り返し耳元で囁く。何度も何度も囁く、あらゆる意味が無くなってその美しさだけの姿になってしまうまで。そしてすべての内臓を抜き取り、ホルマリンに浸けて保存する。愛している。サイレンの音。セイレーンの喘ぎ。神様の声に被さるサイレンの音、ビニル製の皮膚を長い爪で引き裂いていく。炎が焚かれる。喉が燃えていく。地下室の音楽。内臓の臭い。血の臭い。薬品の臭い。吐き気を催す。部屋全体が大きな顎になって、音楽に合わせて揺れている。ゆっくり。少しリズムと合っていないけど、音楽に合わせようと懸命に努力しているのが伝わってくる。その白っぽい愛が見える。透き通った愛がカーテンの隙間から伝わってくる。あなたはジャパニーズサイケデリックの始祖だ。
意識の三千キロ向こうに男が立っている。黒い服を着て、いやに殺風景な場所に立っている。一度も会ったことは無いが、瞬時に顔を思い出せる。外ではあるが、彼の周囲にはあまりにも物が無く、青空が偽物のようである。催眠的なシンセサイザーの揺らめき。ドアをノックする音。南国の鈴。生い茂った緑の中で踊る二人の男。二人とも肌が浅黒く、髪は硬い巻毛である。大きな炎に当たっているかのような歌声、震えるエレキギターの音。横から二人の男たちが出て来て、絶妙なタイミングで手を叩く。
パーティーのどんちゃん騒ぎ。至る所で燥いだ酔っ払いがグラスや食器をひっくり返している。液体が大理石の床で弾ける音が爽やかで美しい。黒猫がその間を駆け回っている。目に入るものすべてモノクロに見える。テーブルがひっくり返り、ドレスの裾を踏み、黒猫がその間を駆け回る。
嘴が黄色く発光する鳥のけたたましい鳴き声。出鱈目なドラミング。同じ一小節を繰り返しているだけのシンセサイザー。彼らは一斉に出口へ向かって走り出す。目映い光が溢れている。筒が温められている。前よりずっとはっきりと。コップぎりぎりまで注がれた酒のような美しさ。乾いた舌の上に五年の歳月が乗っかっている。一頁目から最高の音楽が流れている。氷の中から聞こえる音楽。体の周りを泥が飛び回っている。一面の深緑に夜の闇が重なる。テレビ画面に"Tonight I'm yours."という字幕が流れる。体の表面が蒸発して空に昇っていく。
頭がイカれているのか?君は?わたしは?イカれとるのか?おい!と年老いた男が叫ぶ。あなたは歌っている。美しく禍々しい歌声と、醜く年老いた男の醜い叫び声の落差。作り出される複数のリズムは相変わらず全然合っていないけれど、かっちりと美しく合って(ズレて)いる。押し付けがましくなく、それでいて強大な磁力を持った暴力的なサウンド。美しく見えて、実際は、かなり醜怪であるサウンド。阿修羅の歌声。一枚一枚は乾涸びた色の、薄い皮膜が幾重にも重なってわたしの肌を作り上げる。いつまで形を保ってくれるかわからない。薄い白の球体。昨日、水晶を盗む夢を見た。骨董屋の棚の一番上にあった、手のひらより二回りくらい小さい水晶を、漆塗りの箱から取り出して少し手のひらで転がした後、盗んだ。美しかったから。あともういくらでも残っている気がする。美しい水晶が。この映像の中でも。みんなが好きなものが好き。みんなが嫌いなものが好き。今のは全部嘘。好きなものなんてほとんど無い。大体嫌い。大体大っ嫌い。大体死ねばいいと思っている。それでもたった一つか二つに、地球上の全ての人間に神が降り注ぐより大きな、長期的な、永遠的な、ほとんど完璧な形の愛を与える。
昼間からオレンジ色の夕日が部屋に入り込んでいる。懐かしい匂いがする。その時は存在しなかったはずの愛が、ここまでに登場した何かの力を借りて永遠を得て、どの地点を指さしても絶対に捕らえられるようになった。同じ人間から発される全く別の種類の声。そこに光の粒が、女の子の形をした粒が落下する。砂糖が跳ねるような音。悲しい水辺の物語。銀杏並木で始まった愛。夜のガードレールに彼がもたれかかっている。三メートル先からわたしがその姿に気付いた瞬間から始まった愛。柔らかい毛布を爪先が撫でるところから始まった愛。
快感と引き換えに願望の成就を尽く阻害されている。それでもわたしはほとんど騒音に近い聖歌を聴き続ける。狂騒、狂乱。乱痴気騒ぎ。天使の乱痴気騒ぎを聴き続ける。鼓膜が破れるまで。裸で踊る女神たち。女だけの淫靡で淫猥な世界。そのうちの一人の裸体の女神の発する、シュッ…という声が入っている曲。まばらに挿入される。蕩けるようなロマンチシズムを感じる。
ゼラチンが載ってつるつるになったわたしの肌の上を満足げに撫でて行く。メタリックな犬の舌。メタリックな羊の舌。ステンレス製の心臓を持っている。何よりも柔らかく硬い。わたしたちには一生見えない姿。暖かい海を泳ぐ。水が体に重なりながら流れていく。右に左に包んでは離れていく。その美しい繰り返し。優しい反復。どこを見てもあの美しい顔が見える。万華鏡の世界。曼荼羅の世界。黒い部屋に差し込む光の筋。万華鏡の光。曼荼羅の光。
ミルクを飲む美しい姿。水色の鮮やかなニットを着て、ミルクを飲んでいる。唇の端から漏れ出すミルク。拡大され、スローモーションの中で少しずつ喉の辺りへ落ちて滑っていく白い筋を眺める。細かな襞を脈打たせながら、静寂の中を流れる風の形を描きながら、流れる白い筋を眺める。優しく梳られた愛。母が見ていない隙に、こっそり檻の中に手を伸ばして撫でる愛。神様が見ている愛。神様が見ていない愛。
わたしたちは死んだあと、永遠に清潔な初夏である昼間と、永遠に晩夏の星が光る夜だけを繰り返す海辺の岩陰で、今まで過ごした日のすべての日をランダムに繰り返し続けながら抱き合っていた。つまり三歳のあなたを六十八歳のわたしが抱きしめたり、十四歳のわたしを三十二歳のあなたが抱きしめたり…というのをいつまでも繰り返して、どの日も最高に気持ち良くて幸福だった。だから何もかも安心して。何もかも大丈夫だから。生まれたばかりのわたしは七歳のあなたに抱き締められる。ずっと同じ命を繰り返し続ける。この愛を何度も繰り返す。いつもどちらかが先に居て、どちらかが現れるのをそこで待っている。可愛い妖精の鱗粉。聖なるリバーブ。洞窟の中の音。誰も聞こえない重低音。星空が見える初夏の夜の宮殿で、砂漠の国の宮殿で、何度もひらひらと薄絹の布をはためかせて遊ぶ。銅で出来た鈴の音がまろやかに聞こえる中で。

無職を救って下さい。