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短編小説『ガラス、火、立体駐車場』

五年前まで湯島に住んでいた。その日も確か、このくらいの時季だったと思う。遅めの夕食を済ませ、上野方面へ向かい散歩をしていたところ、一文字だけしか発光していないネオンの看板があるのを見掛けた。遅いといはいえ深夜にはまだ至っておらず、それでも住宅地の中に営業している店があるのは珍しかった。入り口の戸はガラス製で中が見えたので、何となく立ち止まって様子を窺った。店内は暗くてよく見えないが、バーカウンターがあり、客が一人だけ居るようだった。
半ば興味本位で店に入ると、店長と思われる初老の男が無言でこちらを見遣った。「まだやっていますか」と問うと、彼はやはり黙ったまま頷いた。先客から二つ手前の椅子に座り、ビールを頼んだ。間も無く空のグラスと、アメリカ産のビール瓶が目の前に置かれた。本でも持って来れば良かったと後悔したが、ただ散歩をするつもりだったので、財布と携帯電話しか持っていない。仕方なく、店内に流れている静かなピアノ音楽を聴きながら、ビールを一口飲む。お通しであろうミックスナッツの皿が置かれる。店長と先客との間でも何か会話が交わされるでも無く、ただただ夜が溜まっていった。しかし不思議と気まずい雰囲気は無く、それどころか興に乗ってさえ来て、わたしは普段飲みもしない洋酒を次々と飲み干した。その間来客は一人も無かった。二つ隣の席で背を丸めて座っている男は、もはや氷も溶けて水同然であろう酒を、ちびちびと一滴ずつ飲んでいる。ケチな人間だ。

尿意を催し席を立つ。わたしは昔から立ち上がると酔いが回る体質で、その日もそれをきっかけに酩酊状態に陥り、席に戻ってからすぐ居眠りしてしまった。頭が下に落ちる反動で目を覚ます。そこは暗く汚い小劇場のような場所で、座席は横三列、横四列から成り、わたしは左側から二列目の席に座っていた。他に誰か居ないのかと辺りを見回すと、右手の最前列に、くだんの男が座っていた。
目の前には、真紅の垂れ幕の掛かった舞台があった。すっかり酔いは覚めている。やがて何の前触れも無く幕が上がると、出囃子にしては単調な太鼓の音が響き始めた。舞台上には田圃があり、間口は狭いが奥行きがあった。暗くてほとんど視認出来ないが、舞台の奥のほうに、黒っぽい服を着た三人の人間が屈み、少しずつこちらに近づいて来る。やがてスポットライト(といっても、微々たる光量だが)の当たる位置まで来ると、笠を深く被り、黒いリクルートスーツを着た三人の女であることが分かった。女たちは、短いスカートから白くて柔らかそうな太腿を露わにし、黙然と田植えに勤しんでいる。すると突然、左右から二人の黒子が登場し、女たちを思い切り突き飛ばしたかと思うと、シャツを引き千切ったりスカートごと下着を脱がしたり、全身を何度も殴ったり蹴ったりし始めた。その間も、太鼓の音は単調さを保ったまま響き続けている。
女たちの笠が吹き飛び、その下にひょっとこの面を着けているのが見えた。女のうちの一人はほとんど全裸の状態で、両脚を大きく開き、仰向けになって股間をこちらに向けぐったりしていた。残りの二人もやはりほとんど全裸に近い状態だったが、のろのろと起き上がり、倒れている一人の脚を掴み、更に大きく広げた。すると、性器の中から太く大きな百足が何匹か出て来た。百足たちは迷うこと無く、真っ直ぐに客席──つまりわたしのほうに突進して来た。足に上ろうとするため慌てて踏み潰したところ、中身は体液すら無い空洞で、枯葉を踏むようなむなしい音がするだけだった。急いで出口へと走り、重たいドアを開いて、閉じるその刹那、何の気も無しに後ろを振り返る。くだんの先客が、まだ同じ席に大人しく座っているのが見えた。
劇場の外は、自宅近くにある急勾配の坂道に繋がっていた。空を見上げると、かつて見たことが無いほどの満天の星空が広がっており、どうにも気味が悪く、わたしは慌てて坂を下りて行った。

無職を救って下さい。