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能町みね子『私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?』を読んで猫語りがしたくなった

※ヘッダーは最近の愛猫です。可愛いでしょう。
※2022年9月に書いた内容です。

誕生日に、友人が『私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?』というエッセイ本をプレゼントしてくれた。著者は能町みね子氏、名前は何度も見聞きしたことがある。テレビで顔も見たことがある。著作を読むのはこれが初めてである。
能町氏自身も書いているが、はっきり言って猫のエッセイというのは本当につまらないもので、バンド時代含め町田康氏が好きだから『猫にかまけて』を読んだことがあるが、一冊きちんと読んだのはそれくらい。猫の漫画もYouTubeもツイッターもつまらない。猫が可愛いなんて事は世の理なので。それを私は毎日、身を持って知らしめられているので。

何しろ本物がかわいすぎて、いくらキャラ化してかわいい猫グッズを作ろうとも、どうしたって本物の猫に追いつかないじゃないか。かわいいものをデフォルメしたらかわいいところが濃縮されてもっとかわいくなるというのが自然界の法則なのに、猫は科学を超えてしまっている。(…)つまり、光速で進む猫グッズが、ふつうに歩く猫に追い抜かれるという、常識的には考えられないことが起こりうる。

能町みね子『私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?』23頁

その通りである。私は、別の友人にデザインして貰った猫のキャラクターのタトゥーを入れているが、これは稀有な例で、猫のキャラクターは残念ながら大抵実物の猫に勝つ事は能わない。しかしその大元は実物の猫なので、強制的にキャラクターの猫も愛さざるを得ないというパラドキシカルな状況に陥り、人類は未来永劫苦しみ続ける。

著者に倣い、自分がいつからここまで猫を狂愛するようになったのか思い返してみる。
実家で飼育した生き物と言えばカブトムシ、クワガタムシ、ザリガニ、金魚くらいか。筆箱の中でダンゴムシも飼っていた。永遠に視線の交わらない生き物ばかり。
というのも、兄が大型犬が好きで何度か母親に「ゴールデンレトリバーを飼いたい」と訴えていたのだが「犬を飼うのは大変。どうせ私が全て世話をする羽目になる」とよくある反論のしようがない(未来のお世話出来具合を現在証明することは不可能なのに)断られ方をしているのを傍目で見ていた為、フワフワの生き物を飼うことは出来ないのだなあと最初から諦めていた。
加えて幼少期は喘息持ちだったので、フワフワの生き物を飼ったら悪化すると言われており、出来ないのだなあと諦めていた。今となれば嘘と分かるが、母親は途中から「生き物嫌いですアピール」をするようにすらなっていた。信用の無い兄妹だった。

小学校低学年のある時期、クラスでハムスターを飼っていた。休み時間になると触れ合いが許可されるのだが、愚かな子供だったため授業が終わる残り数十秒が待てず触りに行ってしまい、教師に叱られた。
これも小学校の時、校庭の片隅にある飼育小屋でうさぎを2羽飼っていた。私の学年が当番制で小屋掃除をする事になっており、ホースで水を撒いてデッキブラシで床をゴシゴシしていたら、うさぎが跳ねて履いていた白いルーズソックスに茶色いシミが出来た。

…フワフワ生物との思い出コーナーか?私が猫を愛する理由。ぼくらが旅に出る理由。
父方の祖父母が犬と猫を飼っていた。犬はダルメシアンのエル、猫は三毛猫のミーちゃん。どちらも私が物心ついた頃には年老いていたので、あまり激しく触れ合った記憶は無い。エルは何回か散歩した。ミーちゃんは、掘り炬燵の中に一緒に潜った。祖父母が動物愛護の精神を持つような人間だと感じたことは無いから偶然なんだろうが、エルは18歳、ミーちゃんは20歳ととても長生きした。エルが死んだ時、父親が泣いているのを初めて見た。大人の男の人も泣くのかと驚いた。

これまで何度か住居を転々として来たが、どこも取り立てて野良猫が多かったという印象は無い。猫との接点が無い。
偶発的に好きになったというよりは恐らく、先述の町田康然り、好きなミュージシャンや漫画家、小説家が猫を狂愛していたから徐々に「猫=可愛いので愛さないといけない生き物」と刷り込まれていったのだと思う。
それと、ここ数年、久し振りに漫画ブームが自分の中に到来したので子供の頃好きだった漫画をいくつか読み返したのだが、かつては動物や架空の生物(ポケモン等)が戦っても何も思っていなかったのに、今読むと胸が痛くてかなり無理だったので、猫に限らず人間以外の生き物に強い愛情を抱くようになったのがここ10年くらいのことなのかも知れない。いいハンターってやつは 動物に好かれちまうんだ。

73頁の「実際に母からLINEで送られてきた、いちばん最初に見た我が猫の写真」というキャプションの添えられた写真を見た瞬間、涙が溢れた(彼女の愛猫は、病気になり飼えなくなってしまった元飼い主が里親を募集しているのを、彼女の母親が発見した事で出会った)。
能町氏も人生に於いて特段猫と交流があったわけでは無く、生き物を飼った経験も無く、でも猫は可愛くて仕方無く、でも猫を飼えるのか?飼ってもいいのか?「私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?」という葛藤の末に猫との生活を選択しており、私も愛猫を迎え入れる際、全く同じ心境に陥り気分が酷く落ち込んだので、シンパシーを感じた。

他にも、猫エッセイを読んでこなかったからか、自分だけに起こる特殊な状態だと思っていたものが、猫を飼っている人間にはよくある"症例"だと判明した事が多々あった。猫と二人きりで過ごしている時の自分の姿は、絶対誰にも見られたくない。夫であるサムソン高橋氏が後書きで、そんな我々の事を「妖怪猫ババア」(年齢性別不問)と命名している。つまり自分は、そんな我々なんである。

(筆者注・猫は)私と生活を結びつけるかすがいだね。

能町みね子『私みたいな者に飼われて猫は幸せなんだろうか?』107頁

この一文、はいそうですと思った。能町氏の為人が不明なので、あんまり共感の嵐ですとは元気よく言えないが、関係性の濃淡に関わらず、互いに認知し合っている人間の数が極端に少ない自分の場合、その「かすがい」はより巨大で強大であるかも知れない。生活と社会と人生の「かすがい」。

人生に対する自分の全般的な態度・性状は、「無関心」の一言に尽きる。所謂セルフネグレクトというやつだ。
何故自分が生きていく為に"生きる事"を頑張らねばならないのか分からない。何故自分の為に働いてやらないといけないのか分からない。死んだほうが良い人間なのに。食べ物も毎日ジャンクフードで構わない。家事はもちろん、身綺麗にする必要も無い。面倒臭い。──そうやって何もしないで、積極的に自殺することも無く、心臓の病気か何かを放置して死ぬ。腐る。
それが自分に出来る限界だと思っていたが(事故物件を生み出してしまう点だけが気掛かりだった)、猫を養う為にはお金が必要があり、生きる必要があり、その上健康である必要がある。はあ、猫。私を生かすヤバい生き物。なんでこんなにかわいいのかよ。

これを書いている今も、横でぐっすり眠っている。フワフワのお腹が呼吸に合わせて上下している。たまに手足をぐいーんと伸ばしたり、手で顔を掻いたりしている。すべての仕草が可愛い。我が家に来て1年半経つが、可愛く無い瞬間が1秒も無い。どういうつもりなんだ。

本題から逸れまくってしまった。本は面白かった。最近ようやく読書出来る様になってきて、しかしあまり文字に感情や拘り、芸術性、等々が強く込められていると「ウッ…人間が頑張って書いた、文……」といった具合にまだ辛くなってしまうので、これくらいあっさりしていると助かる。
と書くとこの本には何も無いという意味に捉えられるかも知れないがそうでは無い。あっさりしているのか癖があるのかよく分からない文体だし。強度の問題か?私が自殺したら、愛猫に大変な思いをさせてしまうから慎重なのだ。能町氏の文体は今の気分にフィットしているのかもと感じたので、『結婚の奴』もKindleで購入した。いい感じでありますように。

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