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短編小説『The Ghost Has No Home』

肩を叩かれ目を覚ました。7月といってもまだ朝晩は冷える。思わず身震いする。外、アスファルトの地面に座りながら眠っていたようで、尻が冷たい。灰色っぽいスーツを着た男が、わたしを見下ろして何か言ったが、頭がぼんやりして聞き取れない。そのまま十秒、もしくはそれより長い時間見つめ合っていたが、男はわたしが何の反応も示さないからか、小さく舌打ちをして去って行った。
その後もしばらくその体勢で地面に座っていた。ようやく、ここはどこなのだろうと辺りを見回す。池袋駅の西口らしいことが分かる。こんなところで眠っているのは、自分と浮浪者だけだった。俄かに財布の中身が気になり、鞄から取り出す。小銭しか入っていなかかった。つまり、昨日の朝、下ろしたはずの七万円がそっくり無くなっていた。
思い出したくない記憶が蘇る。昨夜は渋谷で酒を飲んでいた。終電はまだあったが、ひどく酔っており帰れそうに無かったので、タクシーに乗った。タクシーの運転手は、よく話す男だった。しかし激しい嘔吐感に襲われていたので、一言も返事をしないでいると、バックミラー越しに一瞥をくれたのち、彼も黙った。
いつの間にか寝ており、運転手の「お客さん」と呼ぶ声で目が覚めた。まだ全身が酒臭く、何より眠かった。運賃を言われ、わたしは財布の中身を全て出し「これあげる」と言った。運転手は驚いた表情をして「いやいや、困りますよ」と顔の前で手を振ったが、その口振りは全く困っておらず、わたしの次の一言を待っているのは明らかだった。望み通り「いいから、あげるから」と言い車の外に出る。転ぶ。そこからは、何も覚えていない。少なくとも、運転手が慌てて運転席を降り、わたしを追って金を返すようなことはしなかった。
酒が抜け始める。頭が痛い。一刻も早く、あの運転手を見つけ出して殺し、金を取り返そうと思った。領収書を探すが、清算を済ませず下車したのだから、そんなものが残っているはずが無かった。頭痛の疼きと共に、苛立ちと殺意が肥大化していく。すぐ隣で、ダンボールに埋もれ、鼾をかいて眠っている浮浪者に目を遣る。しかし、こいつを殺したところで、七万円は返って来ない。あの、間抜け面したゴミのような運転手を殺すしか無い。だのに、彼に辿り着く手掛かりは皆無である。
行き場を失った殺意をうまくコントロール出来ず、すぐに手を離してしまった。眠い。疲れた。何も考えたくない。今すぐ家で眠りたかったが、池袋から自宅まで、どう頑張って歩いても一時間は掛かる。何故、自宅の最寄り駅では無く、池袋なんかを指定したのだろう。それともあのクソ運転手が、わざわざここで降ろしたのだろうか。性根の腐った人間の考えることは、想像する気にもならない。すべてが嫌になって目を閉じる。一切の決定を、起きた後の自分に委ねることにした。

というのが、丁度一ヶ月前に起こった事の次第である。起きた後の自分が下した決断は、「考えないようにする」という、実に単純で哀れな代物だった。わたしはそれを忠実に守り、考えないよう思い出さないよう、今まで通りの地味で静かで暗い日々を送るよう努めた。
そして今日、一時間ほど前、男の悲鳴というのか呻き声というのか、そんなものによって目を覚ました。目を覚ましたと言っても眠りからでは無く、正気の状態から酩酊状態へと目覚めた。そこは扉が開いたままの、男子トイレの個室だった。わたしは、持ち手が青いハサミを持っており、男は、綺麗に磨かれた便器の上に、覆い被さるようにして伏せていた。怯えた顔を両手で覆う。目の当たりから、大量の血が流れている。男は、一ヶ月前わたしに肩を叩いた男と同じ、灰色っぽいスーツを着ていた。酒により冴えた頭でこの符号に気付き、彼は七万円を盗んだ運転手に相違無いと確信したのだった。男は鞄の類を持っていなかったので、衣類のポケットを探ろうかと思ったが、呻き声があまりにうるさく、不快な気分になりやめた。どうせ自分が持っていたところで、あの晩のうちにほとんど使うつもりだった。そう考えると、あの晩に出来たはずの遊興が潰えた事にまた腹が立ち、男の頭を思い切り三回、右足で踏んだ。赤くなった便器の水が飛び散る。
個室を出、水道で汚れた手とハサミを洗うが、血はなかなか落ちなかった。ハンカチで手を拭こうと鞄の中を探ると、内ポケットから二つに折られた白い封筒が出て来た。中には七万円と、タクシーの領収書が入っていた。男はまだ呻き続けている。濡れたままの手で中身を封筒に戻しながら、この後どこで酒を飲もうかと考える。

無職を救って下さい。