オシリス・ストーンに関する一仮説

ピーリー・レイースの失われた地図とオスマン海軍

タイ王国パタヤの西にあるラン島(コラン)で行われた「オペレーション・コラン」。ここで海上に発生したポータルと前後して公開された動画の「オシリス・ストーン」についての関連を考察する。

海上に発生したポータルと、オシリス・ストーンに共通点があることにお気づきだろうか。その数はともに六つである。六角錐を途中でスッパリと切り、さらに六分割した三角柱がオシリス・ストーンを構成する。上面に刻印があることを考えれば、六本を一つにまとめたのが本来の姿だろう。

出典:https://www.reddit.com/r/InvestigateIngress/comments/be0mhc/the_osiris_stone/?utm_source=share&utm_medium=web2x

オシリス・ストーンとは

このオシリス・ストーン、1300年代初期にはドイツ・カルテンベルク方面にあったことが、2018年5月のカルテンベルク&ナヴァロ・キャンプイベントで発見された文書より示されている(リンク先は、筆者も日々のたくっている日本のイングレス・ストーリー調査集団「Lycaeum」メンバー・MailEater氏による該当文書の対訳である)。この文書でオシリス・ストーンは「オシリアン・カルト」なるグループ、もしくはテンプル騎士団の手を経てヨーロッパに渡ったことが示唆されている。

オシリス・ストーンはその名の通りオシリス神、つまりエジプト神話に連なる存在であると考えられ、オシリス神はプライム次元のジャービスに啓示を与えたシェイパーであるとの情報がある。
2018年5月のカルテンベルク&ナヴァロ・キャンプイベントで行われたリモート・パーティシペーション・エクスペリエンスでは、別の次元とつなぐための重要アイテムの一つとして扱われた。

流転する石

もしカルテンベルクとラン島のオシリス・ストーンが同じ物ならば、いかなる理由で、誰が移動したのか。ポータルを通じて、という考え方もできるが、筆者はタイトルに記したとおり、オスマン帝国海軍が関与し、移動せしめたと考えた。

その時期は16世紀。想像を働かせれば1530~40年代あたりと絞れそうだが、物証は無い。状況的証拠として「時代に反して南北アメリカの海岸線を正確に記している」とオーパーツ扱いされていた「ピーリー・レイースの地図」を著したピーリー提督(レイースは船長の意味。本稿では浪漫のため提督としておく)の功績と結び付けたい。

ピーリー提督とオスマン海軍

Wikipediaによればピーリー提督(本名:アフメット・ムヒッディン・ピーリー)は、1465年?~1554年と当時にしては長命な人物である。海軍軍人として活躍したが、地図制作者としても知られ、その成果の一つにして最も名高き「ピーリー・レイースの地図」の現存部分は、東半球つまりアフリカ東海岸~(描かれているとすれば)太平洋にかけてが失われている状態だという。

ピーリー提督は1513年に「ピーリー・レイースの地図」として現在に知られる世界地図を著す。この地図は1517年にエジプトを征服したオスマン帝国9代皇帝セリム1世に献上される。
この地図の資料として想定されている33枚の地図には、イスカンダルすなわちアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の時代のものまで──つまり紀元前の知に遡るものまで含まれているという。
アレクサンドロス3世はすでにIngressの物語にもたびたび登場しており、マグナスの力を手に大遠征を行ったという説さえ出ているが、ピーリー提督が地理情報の編纂を通じて、彼の目的に接している可能性があることに留意しておきたい。
あるいはそのオーパーツとさえ言われた驚異的な地図製作の能力から、ピーリー提督がいわゆるXMセンシティブであったり、活躍時期の長さからシミュラクラとして何度かリカージョンしている可能性も見いだせよう。

さて、セリム1世は1520年に没し、その後をスレイマン1世(スレイマン大帝)が継ぐ。26歳での即位から没するまで在位期間は46年に及び、その名は古代イスラエルのソロモン王をトルコ語で表わすものだという。ピーリー提督はスレイマン1世にも海軍軍人として仕える。

スレイマン1世統治下のオスマン帝国は、1529年にウィーン包囲まで行っている。ここでカルテンベルクを思い出そう。その地はドイツ南方バイエルン州にあり、ウィーンからは西に約400kmまで迫る場所である。オスマン帝国のヨーロッパ遠征の目的の一つに、オシリス・ストーンの奪回があったとしてもおかしくはない。
ウィーン包囲から間もなくオスマン帝国と神聖ローマ帝国は和睦し、スレイマン1世は東方への侵攻を開始する。この東征の目的もまた、アレクサンドロス3世に通じるかも知れない。

当時のオスマン帝国の海軍力はポルトガルと比肩するものだったという。ピーリー提督はポルトガルのインド・東南アジア展開速度を抑制した紅海を拠点とするインド洋艦隊を指揮している。しかし海戦の場においてスレイマン1世の不興を買う行動により投獄され、1554年、カイロにて処刑されたとされる。

失われたのか、隠したのか

オスマン帝国は1560~70年代にかけて、東南アジア・インドネシアを中心とするムスリム国家・アチェ王国を支援する艦隊も派遣しているが、1530年代にはアチェとオスマンを結ぶ海運航路は確立しており、「ピーリー・レイースの地図」の失われた東半球分にこのインド航路の地理が記載されていたことは充分に考えられる。

しかしその地図は失われている。そこに作為があるとしたらどうだろうか。
つまり、ピーリー提督率いるオスマン帝国海軍が、東南アジアへオシリス・ストーンを運んだのだとしたら。その場所を──すなわちラン島南西沖を知られないために、地図の東半分を作為的に喪失させたのだとしたら。

スレイマン1世がピーリー提督を処刑した翌年、1555年にはサファヴィー朝インドと和睦を結び、東方遠征を中断している。このことは「オシリス・ストーン」がひとまず安全な──少なくともヨーロッパ人の手の届かぬ場所に達したことをを受けてのものかも知れない。

なおピーリー提督処刑に相前後してスレイマン1世の統治は不安定となっていく。そして1566年、神聖ローマ帝国が和睦を破ってハンガリーを攻撃すると、スレイマン1世はその報復のための遠征軍中に没す。
一方では文化を重んじ、哲学と芸術を愛好したというスレイマン1世。彼もまたXMセンシティブであったのではないだろうか。
そして後に東南アジア・アチェの地にて「イスカンダル」の名を持つ王が誕生するのは、奇異なる縁であるのか、それとも何かの必然なのか──想像は尽きない。


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