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今日は放送記念日。JOAKの仮放送開始の日。

●本日、放送記念日。数日間『本日は晴天なり』の試験送信、21日間『アーアー、聞こえますか』で始まる音楽演奏だけの試験放送を経て、今日の朝9時半に『ジェ〜イ、オォ〜ウ、エェ〜イ、ケェ〜イ!』と2回、コールサインの叫びから始まった。長く伸ばしたのは鉱石受信機のお客さんが周波数や検波器を調整しやすいように。のちの時代のラジオの『インターバルシグナル』の始まりといえる。今のような『ピー』という調整信号を出す装置は存在しなかったのだ。
●当時のことを細かく調べてみると、いままで語られてきた放送史上の話とは全く違った熱狂的な状況が見えてくる。
●大正14年のラジオ放送誕生の直前直後は、日本のインターネット大衆化元年と言われる1995年前後にとてもよく似ていて、パソコン通信にあたる有線・無線電信時代からの転換期のはじまりでもある。
●なにせ、世の中に放送のプロがいなかったのだ。わずかに、新聞社の実験放送に参加した現場経験者がいただけで、あとは全く別の世界からの寄せ集めで進められてきた時代なのだ。
●だから、昨夜放送されていたテレビ放送70周年記念ドラマに描かれたような『放送人』や『放送精神』はなく、むしろ『ラヂオによる社会の解放』や『ラヂオによる産業活性化』『ラヂオによる大衆の啓蒙』を意識したバラバラな目標点の寄せ集めがラジオ放送の誕生だったのだ。
●この時代、法的にはまだ放送事業とアマチュア無線の境界線も曖昧で、アナウンサーになるには逓信省から無線設備の取扱許可が必要だった。試験こそなかったが、あくまで無線従事者の一種に含まれていたのだ。
●また、この日東京にはJOAKだけがポツリと存在していたわけではない。同じ中波には逓信省のラヂオ普及・監督のための放送局があり、朝と午後2時間づつ『本日は晴天なり』を繰り返すだけの不思議な放送をしていた。そして、あちこちの周波数で予告なくアンカバー(無免許)の放送局が『大根放送局』などの名前で(なぜ大根なのかわからない)子供の弾くピアノ演奏や蓄音器の音楽を放送していた。そして、夜になると既にラヂオ時代が始まっていた上海や天津からのラヂオ放送がパラパラ聞こえていたというのだ。だから、不安定な性能のラジオで聴いている人たちのために番組放送中でも、頻繁に『ジェ〜イ、オォ〜ウ、エェ〜イ、ケェ〜イ!』のコールサインをアナウンスしていた。そして、コールサインでこれがJOAKの放送であることを知らせなければ、正確な周波数表示もなかった黎明期のラジオでは他局と間違えられるおそれがあったのだ。そのくらい、100年前のラジオは賑やかだったといえる。
●そして、無線技術雑誌がよく売れていた。そこには、国内外の最新無線情報や回路図、部品販売のカタログなどが満載で、しかも可愛い女の子のグラビアまであったというからまさにオタク文化形成の萌芽が見える。
●当時、ラジオ受信機を持つだけでも逓信省の許可が必要だったのだが、ラヂオ放送開始の時には東京だけでも既に数千台のラヂオ受信機が存在し、開局初期の放送にさまざまな報告を寄せていたようだ。しかし、受信者の大半は個人の無線研究者(アマチュア無線家やプロの無線技師、または無免許の無線オタク)で、かなりの人は無許可の手作りラジオによる受信だった。
●さらに言えば、1920年台に入る直前まで、軍と逓信省のかけひきや、無線の大衆化に消極的だった政府の腰の重さもあってラヂオ放送事業の推進は遅れていたのだが、1923年の関東大震災がきっかけに加速度的に進められた。何より情報共有の不足から、デマ情報による数々の悲劇があったことが後押ししたのだ。朝鮮人虐殺のことがラヂオ放送誕生の後押しになったことは、1960年台までは黎明期の放送関係者のインタビューや雑誌などへの寄稿にみられていた。黎明期を経験した人が亡くなり始めた70年代以降はあまり言わなくなったのが残念。インターネット大衆化は1995年の阪神淡路大震災が後押しになってピッチをあげて進められた。
●黎明期、ラヂオ放送誕生に向けて実験を進めた人々はわずかな個人と企業だった。特に個人は後の時代を予見していた天才的な気質の持ち主ばかりで、しかも、ラヂオ放送開始後は放送業界の中心に拘らず、あえて周辺へ、縁辺へと進み、ラヂオた社会を結びつける活動に回った。このあたりに関する研究はまるで進んでいない。
●また、ラジオ放送開始初年の『日刊ラヂオ新聞』を入手してよく読んでみると、社会全体がラヂオの本質を探していたことがわかる。投書欄がすこぶる面白い。
●1923年の時点でアメリカは世界初のラジオ放送局San Jose Calling局の放送開始から既に14年。商業放送局免許第一号のピッツバーグKDKA局から3年、ロンドン2LO放送局やソ連のコミンテルン記念放送局は開局したばかり。上海ではケロッグ電話交換機会社のアジア代理店が出資したラジオ局が日本語による週一回のラジオ放送を開始した(日本より2年早かった)。日本にはこうした先例に関する情報がおもに雑誌で伝わっていた。また、本格的な放送編成について言えば、ハンガリーでは1910年代から世界最初の本格的有線放送会社『テレフォン・ヒルモンド』が、電話回線による本格的な放送を朝から晩までやっていた。1940年代、ハンガリー放送協会を設立した時の母体の一つとなり、事業は継承された。
●このあたり、話として遺されてはいるが、ちゃんとまとめられていない。1920年代ラヂオ放送黎明期と、90年代マルチメディア黎明期の両方をよく知らないとまとめる事は出来ないだろう。どちらも記憶の主体は技術者ばかりだから、こういうことをまとめられる人がいないのだ。居ても書かないし。
●今日は東京に出るが、まずは放送記念碑にお詣りに行こう。放送屋なら当然だ。っも、記念される側のひとたちは自分を放送人だと思っているかどうか。何せ、開局してからの数年間、JOAKだけをみても短期間で離職転職した人が多かったことでわかる。アナウンサーだけみても、最初6人採用した第一期正規採用アナウンサーのうち、翌年の日本放送協会への統合まで在局したのは大羽仙外氏一人だけ。なかには天気予報を2回読んだだけでやめた一般公募のアナウンサーもいた。
●第一声を担当した京田武彦は東京日日新聞の記者からの転身だったため本名だったようだが、大羽仙外とは元横浜の教会で説教をしていた大羽俦さんで『仙外』という名前は実は今で言う『ハンドルネーム』にあたりは。
●大阪の人気アナウンサー市川路吟、日本初の女性アナウンサー巽京子(歌手から転向)も、東京初の女性アナウンサー翠川秋子(美術学校卒業の編集者)もすべて『ハンドルネーム』。アナウンサーが本名で仕事をするようになったのは日本放送協会になってからだ。このあたりからも、黎明期のラヂオ放送界の危うさ、ヤバさが見えてくる。ラヂオの黎明期については、まだほとんどまとめられていないも同然だ。

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