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村山仁志『午前0時のラジオ局』シリーズから、情報・ニュース・ジャーナリズムについて考える。

村山仁志さんの『午前0時のラジオ局』シリーズを最初に手にしてからハヤ半年が過ぎたが、何度読み返しても発見、発見、また発見の連続。

まず、全巻、見事な世界観に包まれているが、小出しにしかその世界を示現していないから、読者は全く全体像をつかめない。しかし、後から知る出来事やちょっとした一言が、先に出た何気ない物事の大きな補助線になっていたりするので、読み返したとき、次から次にそれらの『よく見えるところに隠された伏線』があらわれる。こんな仕掛けに富んだ作品はなかなか出会えない。

仕掛けは立派ではあるが、Dramaturgieは大変にオーソドックスで、つまり、ジャンルの約束事に依存せず、世界のあらゆる物語の原型である『64の原型』を迷うことなく利用しているため、読み始めたらスイスイ進む。スイスイ進むので、細部の見落としも多くなり、そのぶん読み返しの楽しみが増えるのだ。

ああ、ここまで書いて『ある小説について書く』ことの厄介さに苦悶している。だって、一番書きたいことを書くと全部ネタバレになってしまうのだから。

毎回悩むのだが、今回はこのシリーズを土台にして『情報とは何か』を考えてみたい。

情報とは、福沢諭吉らしいが、いかにも日本的なよい造語だと思う。実は『情報』を英訳することは大変難しく、必ず文脈的な判断を要する。informationも、intelligenceも、knowledgeも(それぞれ日本語が当てられてはいるが)全て『情報』なのである。また、同じ漢字文化圏では『消息』として区分されているnewsなども日本では『情報』が引き受けている。『この料理の情報』と言った場合、味、盛り付け、レシピ、栄養、名前、由来、誕生の物語など、あらゆる構成要素が対象となる。

つまり日本語の『情報』を理解するには、まず、intelligentな理解をしなければならないのだ。

インテリジェントな理解とは何か。それは、習って覚える理性的な理解ではなく、野良猫が身体で街を把握してゆくような感覚的な理解である。ちなみに、スパイ活動とはインテリジェンスな活動である。

あらゆるものは『情報化』できる…この一文が、情報の本質を最もよく示した言葉ではないか。つまり、世界には『情報化された世界』と『情報化される前の世界』が共存しており、全ては一対一の関係で結ばれているのだ。

ただし、その数を特定することはできない。なぜなら、あらゆる存在は物質、非物質(出来事、概念、感覚など)を問わず結合・分離が自由であるから、そのアイテム数を特定することはできないし、その写し鏡的存在であるはずの『情報』も、アイテム数を特定できるはずがないのだ。
ただ、情報と非情報の違いは明確だ。『情報はひとりではいられない』という一点が、非情報化存在との決定的な違いなのである。

たとえば、ここに林檎が一個ある。林檎は総体として林檎という名前を持ち、林檎を知る大半の人はその言葉を聞いただけで、総体的に林檎を思い出すことができる(そこで浮かんだものが果物の林檎か、音楽家の椎名林檎かという問題は、ここでは問わない。つまり、本質的にはどちらでもいいのだ)。この時『林檎』という名前やイメージなど、聞き手に林檎を示現させるものは全て『情報化された林檎』である。

しかし、林檎自身は皮や身や種子や香りや酸や色素の集大成であり、それぞれに名前や想起させる『情報化されたもの』が一対一で存在する。

つまり、世の中には、実態としての林檎やその構成要素・周辺要素と、情報として受け止められた示現結果としての情報林檎・情報林檎の情報構成要素、情報林檎の情報周辺要素情報があり、それらはややこしく一対一で結ばれていながら、われわれは大した苦労もなく生きているのだ。

われわれは、林檎に接するように情報林檎にも接している。これは決してコンピュータ登場以来の話ではない。たとえば、日本では能の構成要素として、過去の出来事を象徴する人物の幽体がよく登場するが、これなどは、過去の無念な出来事が情報化された姿であり、かつ、その当事者自身とそれが情報化された『幽体』が重なった姿なのだ。だから、出会った側にとって、彼または彼女が本人であるか幽霊であるかという問題には物語進行上、たいした区別はいらない。
早い話、情報とは『幽霊』なのだ。ただ、そこには、実体が残されたままの『生き霊』が含まれるという点に注意しなければならない。

実態がある。そこから立体的にごく薄いく表層が剥がれて浮かび上がる。それはフワフワと他力で宙を飛び、あちこちで実体と勘違いされる…これは、何か幽霊伝説や幽霊の噂が生まれる時だ。

都市伝説は、事件や事故の実体から遊離したイメージがフワフワと他力で世間を渡り歩いているものだ。噂だけの存在と言われるが、それが剥がれ落ちるもとになった『まとまったイメージ塊』は実存したのだ。もしかしたら個人の頭の中に、かもしれないが。
つまり、人の多くは頭の中のイメージから剥がれおちてくる『幽体』を言葉や文字にして渡り歩かせているのだ。

事件が起きた。起きた事全体を(構成要素かり周辺要素までを全部含めて)『真実』という。しかし、真実を見ることは人間には不可能である。人間が把握できるのは、表層から剥がせるわずかな『事実』だけで、複数の事実を組み合わせて、空白部分を推理しながら『真実』を見極めようとするのだ。これがあらゆるジャーナリズムの仕組みである。

記者は、言葉やカメラ、マイクで出来事から何かを引き剥がす。それは断片ではあるが『事実』である。『事実』は人間にとって『真実』に少しでも近づける唯一無二の橋掛りだから大切なものだ。しかし、その『事実』が必ず『真実』に橋渡ししてくれるかどうかはわからない。そこは、多くの人の手で事実を寄せ集め、多くの人のインテリジェンスを駆使して、妥当な『真実』を見いださなければならないのだ。それが、あらゆる報道機関の存在理由である。真実を追求するために事実を集め、分析など発表するのがジャーナリズムの役目なのだ。

やがて、この『真実を見極める場』は、それ自身が持つ磁力により、世界中から『幽霊のような事実=情報』を引き寄せ始め、記者が剥がしてきた事実以外に大量の『幽霊』が押し寄せてくる。

その状況で、メディアには、集まった情報の幽霊を交通整理しながら、記者の剥がしてきた断片や、人々から送られてくるさまざまな幽霊の浮遊情報が集められる。

ニュースの現場が、取材と分析と発表の一対一関係だけではない『綺麗事だけですまない場所だ』というのは、このことを言うのだ。ニュースの現場には、涙も情も、歪みも欲もあり、それらは必要あって存在しているのだ。

『午前0時のラジオ局』の舞台のひとつであるTRNラジオ三階のスタジオは、まさにこうした『幽霊』が自由に飛び込むような場で、中にいる2人の主人公は霊視体質、つまり情報感度の高い人々なのだ。もはやこの作品はSFとして捉えられるべきだろう。

さあ、ここまで好き勝手に書いたが、こんなスーパーな感覚を持った初々しい二人が始めた深夜のDJ番組なんて、ワクワクしない?情報の宇宙に孤独に浮かぶ宇宙船のスタジオを連想しながら、この『人里離れた丘の上にある小さなラジオ局』の物語にキュンキュンするのです。

ほんと、こんなラジオがあったらいいのに!

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