「バタイユ」湯浅博雄

実際、私はつねに〈本来的な同一性)として現前しているのだろうか。〈私という人間=個人〉personne の統一性や整合性・一貫性は、それほど確実だろうか。
デカルト以降の思想・哲学(の本流)が、たとえばヘーゲル哲学がそうみなしてきたように、人間はいつも (そして既に)(自己の意識)なのだろうか。定立された〈主体〉なのか、その(能力)なのか。すなわち言葉に関わる能力、理性的にふるまい、作業する能力、〈労働〉する能力なのか。
たしかに「人間」はそうにちがいないのだが、しかしそれが人間の総体なのだろうか、 そこからずれ動く部分、溢れ出す部分があるのではないか、その領域はどうしても私=自己へと結びつけられないので、夜闇のなかに隠れ、言葉と理性の光はそこまで射し込まず、い わばかき消されたようになっているのではないか。そうバタイユは、問いかける。



なぜこれほどまで(私の存在)を問い直すのか。その理由は、これまで述べてきたとおりだ。なぜなら(私という人間個人〉は、そのように切り離された主体として(自己意識、 その能力=ロゴス的能力として)定立されるプロセスで、言葉の仕組とその作用が成す法則性に服し、もっぱらそんな規範と制約に従ってふるまう〈言述的な思考と論理〉によって構成されているから。
しかし、〈私の統一性〉を自然的な所与のように信じている限り、それを自覚しないから。願っても願わなくても、〈ロゴス中心主義的〉に考え、判断し、行動するから。自分の意図や志向に基づいて組み立てられる思想やロジックしか知らず、そこから外れている(非意志的なものの論理〉、〈余白の思考〉にどうしても気づかないから。私の対象とならずに逃れ去るものが、どれほど人間にとって大きな力を奮うかに、まったく盲目であるから。


こうしたバタイユの思想的構えは、彼が三○年代に深く思索した異質学(異質性に関わる学) hétérologie のうちにも見られる。
〈同質性〉homogénéitéとは、共約可能なものであり、あるいはむしろ「共約可能性の意識」である。つまりもろもろの事象にいつも既に共通の評価の規準があると、暗黙のうちに信じられていることだ。そして人々は、その共通の尺度をまず前提にして測り、評価しているのに、自分ではそうとは気づいていない。なぜ気づかないかというと、その尺度はほとんど必然的に〈私の尺度〉だから。(私の意志・能力・思考〉のなかに溶け込み、一体となっ ているような尺度であるから。


(社会)的なレヴェルで、この共


わ〜い!😄