私にとってのマイクロアグレッションの体験を言語化してみた
たまにFacebookで色々なの反応をもらって、Facebook以外でも見れるように公開して欲しいとリクエストされるものがあります。今回は私がFacebookで書いたマイクロアグレッションについての投稿です。今回はその時のものをそのままコピーしてあげてます。
このようなことを書こうとしたのにはきっかけがありました。同じ記事をシェアしている人たちのコメントに「傷つけないなんてできないよね」「傷つけてもわかりあうきっかけになればいいのではないか」「窮屈さを感じる」などというマジョリティ側の正直な気持ちと難しさが語られていました。その声自体はリアルで、そうだろうなぁと思いつつも、そこにはその都度傷ついているマイノリティ側の気持ちが誰からも想像されず、語られず、コメント欄そのものがマイクロアグレッションに感じるものがあったからでした。
そういう発言をしている人たちへの批判ではなく、個人的には読んでいるうちに吐き気がしてきてしまったので、自分自身の吐き気をなんとかしたくて表現した投稿です。
物事にはあちら側とこちら側で見える景色が違います。「あちら側」と「こちら側」をつなげて多様な社会の中での関わり方を考えるきっかけになれば嬉しいです。
きっかけになった記事も一緒に載せておきますね。この記事自体も色々と考えるきっかけになると思います。
投稿をそのままどうぞ!
ちなみに、ここに書いてある企画はこちらです。
LGBTQ+と現場に立つアライに贈る ディープデモクラシーへの扉@大阪「葛藤・つながれなさ」の先へ
参加者がかなりリアルな感想を書いてくれているので、そちらもシェア
マイクロアグレッションへの自覚は、分断ではなく多様性がもっとつながっていくために広まったらいいなと思っています。「大したことがないだろう」と思われていたことが「いえいえ、大したことなんですよ」ということ。傷つけちゃいけないというポリコレが「窮屈だ」と言えるのは自分は傷つかないで済む人の言葉。誰もがマイクロアグレッションはされた経験があるはず。そこに気づけばもう少し多様性への想像力もつきやすいのかなと思います。
だから自分の痛みを大切にすることは、他人の痛みも大切にできるようになる近道だったりするのでは、と思うのです。