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「こちら側」からみたマイクロアグレッションー「大したことない」ことにされてきた私の中の小さな痛みたち

私にとってのマイクロアグレッションの体験を言語化してみた


たまにFacebookで色々なの反応をもらって、Facebook以外でも見れるように公開して欲しいとリクエストされるものがあります。今回は私がFacebookで書いたマイクロアグレッションについての投稿です。今回はその時のものをそのままコピーしてあげてます。 

このようなことを書こうとしたのにはきっかけがありました。同じ記事をシェアしている人たちのコメントに「傷つけないなんてできないよね」「傷つけてもわかりあうきっかけになればいいのではないか」「窮屈さを感じる」などというマジョリティ側の正直な気持ちと難しさが語られていました。その声自体はリアルで、そうだろうなぁと思いつつも、そこにはその都度傷ついているマイノリティ側の気持ちが誰からも想像されず、語られず、コメント欄そのものがマイクロアグレッションに感じるものがあったからでした。
そういう発言をしている人たちへの批判ではなく、個人的には読んでいるうちに吐き気がしてきてしまったので、自分自身の吐き気をなんとかしたくて表現した投稿です。

物事にはあちら側とこちら側で見える景色が違います。「あちら側」と「こちら側」をつなげて多様な社会の中での関わり方を考えるきっかけになれば嬉しいです。


きっかけになった記事も一緒に載せておきますね。この記事自体も色々と考えるきっかけになると思います。

Facebookでシェアされていた記事

投稿をそのままどうぞ!

hi friends

朝っぱらからマイクロアグレッションについて、めちゃくちゃめんどくさいと感じられるかもしれない話を書きます。

嫌な人はスルーしてね。

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マイクロアグレッションはマイノリティ側にいる時はすごく気づきやすい。それはまるでザラザラした木の面積にスッと触れてしまって小さなトゲが刺さり「っ!なんか痛いぞ」と体がシュッと緊張する時に似たような感覚…しかもそのトゲって小さすぎてなかなか抜けない。小さいのにめちゃくちゃ痛くて無視できない。そんな体験に似てるなーと思ったりする。

小さい「マイクロ」なことなんだけど痛いんだよね、かなり。しかもマイノリティ側にいるとそれが一回だけでなくて、何度も何度も何度も何回も続く。あちこちで経験する。
それがかなりのダメージになっていく。

小さな「痛っ!」が続くとなんとなーくげんなりしてきたり、イライラが溜まったり、諦めたりする。

大体のマイクロアグレッションはその人の無知による、悪気のない言動だったりするので、わざわざ指摘するのは大体の場合気まずい感じになる。
相手の反応がどう出るかわからない。
関係性が人質になってるからリスキーだし、「なぜ私たちマイノリティが無自覚な無自覚で無知なマジョリティに毎回指摘して教えて差し上げなくてはならない?(しかも大体は無料で)」
という気分にもなる。

かなりげんなりしているのだ。
普段から。

感情的になったりすると怖がられる。

しつこいと、神経質だと、言われる。

だからどうしてもの時は「知らなくても仕方ないよね」とこちらが寛容さを育てていくことになる。

そんな心情を飲み込んで、根気強く伝え(教え)続けたり、もうそれもめんどくさくて、何も言わなくなる。

そんな複雑な心境による沈黙にマジョリティは気づかず無邪気に「交流」とか「理解し合う」とか「対話のきっかけになったらいいよね」などと前向きな発言をする。
「傷つけてしまうことあるよね。」「仕方ないよね。避けられないよね。」「それをきっかけにお互い分かり合えたらいいよね」…

うーむ。そうなんだけど、言葉はその通りなんだけど、それをさらりと言えてしまうこと自体が特権がある人からのマイクロアグレッションに感じる時がある。

マイクロアグレッションという言葉が日本に入ってきて、マイノリティが受けてる小さなトゲのような、悪気のない会話の中にある暴力性がやっと「あること」にされた。それを指摘することはこちらが神経質ではないんだと言ってもらえた気にもなってホッとした。

同時に私がマジョリティの時はストッパーになった。素朴な質問ができなくなり、常に特権を意識してしまい「対等な友情」を築けないような、遠慮してしまうような、そんな溝を感じて悲しくなったり、不自由さがある。

正しさは時に人との距離を生む。

でもその不自由さを感じる経験は実はチャンスだ。相手側に対する想像力を働かせるチャンス。自分の発言のインパクトを考えるチャンス。知らないことを調べるチャンス。自分の素朴な質問がいかに偏見や決めつけが前提となっているかに気づける、マジョリティとして数少ない特権に気づけるチャンス。

大切なのは
「その不自由さをどのように超えるか。」
だと思う。

「傷つけることはあるよ。仕方ないよね。それを通して対話が生まれたら。」はどちら側が言うかで意味が全然異なってくる。

マジョリティが言えばそれは開き直りであり、マイノリティにとって傷つけることを正当化するような、ゾッとするマイクロアグレッションになりうる。
マイノリティ側がそれをいうのはその人の寛容さになる。

その対話にはマイノリティ側に負担がいくかもしれない可能性があり、まさにそれこそが特権の違いなんだということを「ないこと」にしたくないと思い、書くことにしました。

マイノリティはそういう経験を経て心理的、精神的に成長するチャンスをもらい、忍耐力や寛容さを育てるチャンスでもあり、時には主張したり怒ったりするパワーを育てるチャンスでもあり、強くたくましくなっていけるチャンスを宇宙からもらえてる。気づけるアウェアネスや差別する構造を学べるチャンス。
それがマイノリティが与えられた特権だなと思う。

自分の痛みをケアすることをして、バーニングウッドを続けて逐一反応しなくなれば、同じ「沈黙」や教えてあげる場面になっても自分で選択する余裕が出てくる。

ある社会的マイノリティの背景を持つ友から「dayaさんが言ってくれることで楽になったり、自分で自分を蔑ろにしてる、ことに気付けたりするから感謝してる。それがあなたの役割だとも理解してる。でも日常的に差別を受けてる方からするといちいちそんなこと考えてたら生活できないし、めんどくさいなって思う人もいると思うよ。」と言われたことがある。

そうだろうなぁと痛感してる。
その後もすごく深くてありがたい、一生忘れないような話をした。

そんな人たちの事も思う。

めんどくさくてごめん!
スルーできなくてごめん!

実は今日はゾッとするようなやりとりを見かけてしまってね。久しぶりに身体が反応して、吐きそうになってしまった。

この人たちは大丈夫だろうと思ってた人たちから悪気のないマイクロアグレッションが含まれる発言を見かけるとショックだよね。
かなりダメージが強かった。
久しぶりの体験。

うーん。
これは無いことにしたくないなぁと思って自分のためにも書いたよ。だから見かけたことはよかった。書く原動力になったから。
感謝だ。

そして今度はこの投稿がみんなの考えるきっかけになると嬉しいな。

考えないとはじまらないもの!

みんなの意見も聞かせてね。

そういえば、ここにも書いた「つながれなさ」を超えてどうすればみんなでつながって連帯していけるのかを模索する合宿を来月やるのでコメント欄にリンク貼っときます。
助成金をもらって参加しやすくしたギフト企画だよ。あつまろー。

ちなみに、ここに書いてある企画はこちらです。
LGBTQ+と現場に立つアライに贈る ディープデモクラシーへの扉@大阪「葛藤・つながれなさ」の先へ

参加者がかなりリアルな感想を書いてくれているので、そちらもシェア

マイクロアグレッションへの自覚は、分断ではなく多様性がもっとつながっていくために広まったらいいなと思っています。「大したことがないだろう」と思われていたことが「いえいえ、大したことなんですよ」ということ。傷つけちゃいけないというポリコレが「窮屈だ」と言えるのは自分は傷つかないで済む人の言葉。誰もがマイクロアグレッションはされた経験があるはず。そこに気づけばもう少し多様性への想像力もつきやすいのかなと思います。

だから自分の痛みを大切にすることは、他人の痛みも大切にできるようになる近道だったりするのでは、と思うのです。

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