大西つねき氏の「命の選別」発言から考える

今回、れいわ新選組の大西つねき氏が自身の動画内で「命の選別」に言及したことが大きな波紋を呼んでいます。
私自身、この一年半ほど大西氏の言動に注目してきた1人なので大いに考えさせられました。

改めて概要を記すと、大西氏が動画配信内で「若い世代が減る中で高齢者が極端に多いといういびつな状況にある。今までは少しでも長生きさせるための政策を続けてきたがそれでは持たない。政治が命の選別をしなければならない。若者か、高齢者か、順番としてどちらかを選ぶとしたら高齢者からいってもらうしかない」という発言をしました。

大西氏は今まで一貫して「個人の心の自由」を訴え続けています。
そのため今回の発言との間に違和感を覚えました。
しかし、ここではこの発言の是非は置いておこうと思います。
人のことを良い、悪いと論評しても得る物は少ない。
それよりもこれを「生きることについて考える」きっかけにできればと思います。

「命の選別」というワードには「延命治療の是非」が大きく関わると思います。
今日は私が普段感じている延命について書きたいと思います。


私は急性期病院で作業療法士というリハビリテーション職をしています。
(作業療法士については過去記事をご参照ください)

作業療法(OT)とは|自律整体めぐりや 


私が救命処置をするわけではないですが、人の「生き死に」の隣で働いています。
そのため常日頃から「何のために生きるか」という命題と向き合っています。

誰しも自分に、家族に、突然死期が訪れるかもしれません。
そういった時に起こることを書きたいと思います。
(おおざっぱな書き方になりますがご了承ください)


ある日、高齢の家族が倒れたとします。
日頃から特別悪いところは無く、身体の心配は何もしていなかった。
別に死ぬ時は死ぬし何かあっても手術なんて受けたくない。
管から栄養剤を入れるなんてもってのほか。
とは言ってはいたものの、しっかり話す機会は無かったという想定です。


救急車を呼ぶと病院に運ばれます。
(たらい回しにされなければ…)
医師の診察と画像所見から重度の脳出血だったとします。

状況によっては手術するかしないかの選択をまず迫られます。
手術の結果どうなるのか。
大まかに予想はできても細かくは分かりません。
麻痺が残るかもしれない。
歩けなくなるかもしれない。
手術しても意識が戻らないかもしれない。
しかし考える猶予はほとんどありません。
出血量は時間の経過と共に増えていくからです。

呼吸ができなければ人工呼吸器が使われます。
空気の通り道に管を入れて機械で呼吸をコントロールする装置です。
呼吸が改善すれば外すことができますが、改善しなければ気管切開といって喉に穴を開けて管を入れる手術をします。
その後呼吸が安定すれば気管切開の管も取ることが可能ですが、抜けないままの場合もあります。

そして無意識に点滴やチューブを抜かないように手を縛られたり、指を使えないように厚いミトンをつけられます。
いわゆる「身体抑制」です。
超急性期で抑制をしないことは非常に難しいことです。
本人が無意識に管を抜いてしまうと命に関わる、という状況において抑制無しというのは相当なマンパワーと覚悟が必要で、現状ではほぼ不可能です。

意識が戻らないと口から食べられないので鼻から胃まで管を入れて栄養剤を流す「経鼻栄養」が始まります。
よく知られる「胃ろう」との違いは手術が不要ということです。
その分、常時鼻から管を入れられたままという、とても苦しい状態が続きます。
定期的な管の交換も必要なのでその身体的負担も大きいです。

意識が戻らない、または戻っても飲み込みがうまくできないと経鼻栄養を終わらせられません。
また、口から食べられないと大抵は家に帰れません。
飲み込みが改善する見込みがあれば良いのですが、難しければそのままです。
経鼻栄養では受け入れ可能な施設が限られるため、胃ろうを作ることが検討されます。
胃ろうは管理がしやすいため、受け入れられる施設が比較的多い、という特徴があります。


突然倒れてから次々と手術、人工呼吸器、気管切開、身体抑制などの判断を迫られます。
病前、それらを拒む意志を示していても家族がその選択をすることが難しいケースは多いです。
手術すれば命は助かることが多いからです。
選択しなければ見殺しにしてしまった、と思い悩むことになりかねません。
人工呼吸器も同じです。
経鼻栄養や身体抑制などはまず拒否できません。


そのため病前から手術を受けたくない、といった意思表示をしっかり家族で話し合うことが大事です。
できれば救命や意識が戻る可能性によって対応をどうするか、といった細かな話ができるとなお良いでしょう。
単に延命したい、したくない、という話では判断できません。
緊急時は何が延命になるか分からないからです。


緊急時に本人は選択できません。
家族が選択を迫られ、少ない時間で悩むことになります。
「死」を語ることは様々な意味で怖いと感じる方が多いと思います。
しかし、納得できる医療を受けるということは自分の人生を生きる上でとても重要なテーマだと思います。
そして人生の最期において医療との関わりは避けては通れない道です。
話しづらいテーマではありますが、一度勇気を出して家族で「人生の最期」について話してみませんか?

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