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「胃ろう」から考えるいのち

6月12日にいつも出店でお世話になっている路地裏ガレージマーケットさんにて松本ひできさんという方のお話会を主催します。
この方、なんと自転車で地球を6周し135ヵ国を周ったというとんでもない人です。
世界をみて感じたこと、環境、医療、教育、エネルギーなど多様なテーマについて話していただきます。
なかなか無い機会なのでご都合よろしければぜひご参加ください。
詳細はこちら


さて、今回のテーマは「『胃ろう』から考えるいのち」。
皆さん、胃ろうの名前は聞いたことがあるかと思います。
ご飯が食べられなくなった人のために行う処置のことですね。
胃に穴を空ける手術をして、その穴に栄養剤を入れることで食事の代わりとするわけです。
延命治療の代名詞のように扱われてとてもイメージの悪い「胃ろう」ですが、少し情報を整理できればと思います。

そもそもなぜ食べられなくなってしまうのか。
こちらのブログで分かりやすくまとめてありました。
高齢者が「食べない!」原因の探り方を紹介


色々な要因で食べられなくなってしまうことがあるということですね。
私は脳外科病棟で働いているので脳卒中で嚥下(飲み込み)機能が悪くなってしまう方を多く見てきました。
中には飲み込みには問題が無いのに食べることに全く意欲が持てなくなってしまう方もいましたね。
認知機能や内蔵の状態、精神状態など様々な要因が絡んでいたんだと思います。

そういった、何らかの原因で食べられなくなってしまった方はどうなってしまうのか。
主に3パターンあります。
1つ目が胃ろうや鼻から管を入れて直接胃に栄養剤を流す方法(経管栄養といいます)。
2つ目は中心静脈栄養(CV)といって太い静脈に多量の栄養点滴を入れる方法。
3つ目は普通の点滴(末梢静脈点滴)だけで対応する方法。

2つ目のCVは感染のリスクが高く、長期間続けることには適さない方法です。
3つ目の末梢静脈栄養では栄養投与量に限りがあるため、徐々に衰弱して亡くなってしまうことが避けられない方法です。どうしても経管栄養を選びたくない、という場合に選択されます。


現状、多くは経管栄養が選択されます。
脳卒中になり、意識が無くなると当然食べられなくなります。
その場合鼻から管を入れる経鼻栄養が選択されます。
徐々に食べられなくなった方の場合は経鼻栄養をしない選択も可能だと思いますが、脳卒中では救命が優先れるので選択の余地はありません。

意識が戻って食べられればいいのですが、色々な原因で食べられなくなる方がいます。
経鼻栄養をしながら食べる訓練をすることもできます。
それでも難しい場合、胃ろうが検討されます。
最近は胃ろうのイメージが悪いこともあり、経鼻栄養のままにすることが増えているように思います。
ですが、経鼻栄養は2週間に一度ほど管の交換が必要です。
また、ずっと管が鼻から入っているため、当然違和感が強い。
誤って引っ張ってしまうと簡単に取れてしまうので入れ直さなければなりません。
在宅では訪問看護で処置してもらうことになります。
つまり経鼻栄養を続けることはとてもしんどいということです。


一方、胃ろうは比較的管理が簡単で受け入れられる施設も多いです(経鼻栄養だと受け入れてもらえないことがあります)。
また、訓練の結果食べられるようになったら閉じることもできます。

問題なのは胃ろうそのものではなく、食べる訓練をやめてしまうこと、そして口腔ケアが疎かになってしまうことなのではないかと思います。


胃ろうになっても粘り強く飲み込みの訓練を続ければ改善する余地のある方は一定数いらっしゃるように思います。
しかし、そういった訓練ができる人材が少ないのが現状。
言語聴覚士(ST)は飲み込み訓練のプロですが、理学療法士(PT)が17万人、作業療法士(OT)が9万4000人に対してSTは3万6000人と少ないのが現状です。
STが増えるのを待つというより、飲み込みに対する知識、技術を他のリハ職種や看護師などが勉強すれば良いと思うのですが、飲み込みは窒息のリスクもあるためなかなか広がりにくいのが現状です。

また、「胃ろう=食べることを諦める」という認識も非常に良くないと思います。
「食べる」という行為は飲み込みだけではありません。
「食べたい」という意欲であったり、胃腸の状態であったり、精神的な状態など様々な要素が重なり合って成り立っています。
それは先に紹介したサイトにある通りです。
飲み込みに限らず様々な要因で食べられなくなってしまった方が、胃ろうを一時的に作って最終的に抜去することを目的に飲み込み練習を続けることが選択肢としてもっとあってもいいのではないかと思います。
そして食べられるか否かに関わらず、口腔ケアをしっかりしてほしい。
口の中が汚いことは様々な疾患リスクが高まりますし、そもそも口が汚れたままなのはどんな人でも嫌に決まってますよね。
人として最低限保証されるべきものだと思います。


そしてもう一点。
胃ろうも経鼻栄養もしたくない方がそのまま何もしない選択する、ということがしっかり尊重されるべきだと思います。
食べることは生きることと同義とも考える方も多いと思います。
その「食べる」ことができないなら無理に管を入れずにそのままで構わない、そういった選択をされる方がいても自然な反応だと思うのです。
しかし、たとえ経管栄養を選択しなかったとしても現状では末梢点滴は入れられます。
そうすると「点滴が入らなくる=死」となります。
看護師としてはそれは避けたい。
なので必死に点滴を入れられる血管を探します。
しかし、末梢点滴だけでは低栄養となるため徐々にむくんで点滴の針は入りづらくなります。
何度も点滴を刺して、漏れてを繰り返した結果亡くなる…ということになります。
そんなケースを何度か見てきました。

そのため、経管栄養をしないと決めたら点滴もしないと決めた方が良いと私は思います。
点滴すらしないという選択はかなりの意思が必要ですが、結果としては本人のためになると思います。


そしてこれは消極的安楽死に当たります。
私は安楽死について真剣に議論するべきだと思います。
安楽死を認める・認めない以前に私達自身が人生の最後について真剣に考える必要があると思うからです。
(安楽死については以前にも書いたことがあるのでよろしければお読みください
京都嘱託殺人事件から考える②~どう生きるか~



どんな方でもいつ事故や病気で命の危機を迎えるか分かりません。
死ぬことを考えることは生きることを考えることと同義です。
日本が成熟した社会になるために互いの違いを認めて議論できるようになってほしいと心から思います。

自分と相手は違う存在。
だから違っていてそれでいい。
まずは自分から、ですね(^-^)

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