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知識の記録方式(61) 読書

 昔と今とでは本の読み方が変わってきている。若い頃は、どのようなことに対しても興味があり、読む本のカテゴリは多かった。推理、歴史、起業、純文学、ハウツー、ものづくり、経営、ベストセラーなどであった。
 現在は、知識に関する本に集中して読書をしている。意識、記号論、知能、教育、文化、情報、言語、知識、創造などを読みたくなる対象となっている。興味が知識というテーマに没入する様になり、実は他の分野に時間を割けなくなってしまったことが理由である。時間が有れば、もっといろいろな分野の本を読みたいと思う。

 本をどのように読んでいるかについてであるが、最近はタイトルと口コミを見て決めている。口コミがなかった頃は書店で必ず手にして購入していた。しかし、最近はもっぱらインターネットで購入している。電子書籍もダウンロードしてはいるが、圧倒的に紙本が多い。ペラペラめくりによる読書は紙でないと無理だ。気になる記述はイメージスキャナのアプリでスキャナして、本のタイトルと合わせてpagesに保存している。

 後に本を読み返す為のメモにしている。そしてその言葉づかいを忠実に記録する様にしている。同じことを言っていても、言葉づかいにより受ける印象は全く異なるためである。

 読んだ本の意見交換ができたら良いと思う。或いは、できないことの方が良いのだろうか?最近のSNSではオープンになったことにより、知らなければ良かったことも知ってしまう場合がある。知りたくない権利があるはずだ。何でも知らされてしまうと人は安心して暮らせない。

 例えば、AIが特定の人の信用度を点数化することはいかがなものかと思う。そんなこと比較されることを望まない。無神経に決められた点数に公共性はないだろう。企業が内部の指標として持つのはあっても良いが、それが外部に見えるのは、たとえ本人であっても問題がある。そのようなことを知りたくないはずだ。

 本を読んだ者同士で意見交換できたら良いと思ったが、それは知りたくもない意見を聞くことになるのではないかと否定しようと思う。やはり読書とは、自分の心で何を思うかまでで良く、十分であると思う。他者がその本をどのように解釈して意見を言おうとも無関係なことだとしておきたい。

 今日、インターネットからは見たくもない情報が毎日、執拗にとも思われるくらいに一方的に表示されてくる。このような状態を誰が許可したのだろうか。初期の頃は、ほほうと思って眺めていたが、今日では、もういらないと言う気分になってきた。大人は取捨選択して、読み流すことができるかもしれないが、同じ情報を子供が見ていると思うと心配である。

 情報は自ら取得するようにできないものだろうか。だから、ひっそりと読む紙本を手にし、その時間だけでも、インターネットの余計な情報から離れることができ、安静な時間を過ごすことができるのである。本は無くなって欲しくないと思う。

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