いきもの係のいない世界です



夏休みが終わると小屋のうさぎが死んでいた。
いきもの係の少年は、夏休みを境に部屋から出なくなってしまった。

無職、ヒキコモリ、障害者、病人。
いてもいいけど、近所にはいないで欲しい。
そもそも視界にすら入ってないのに、それでもなお近所にはいて欲しくない。


基本的に、いてはいけない存在なのです。
本当はいて欲しくない存在。
でも存在するのは仕方ない。
だから、ひっそり、こっそり生きて欲しい。
視界に入らないところにいて欲しい。
なぜなら、私たちの生活の邪魔だから。


でも、どうしたってオチコボレは存在します。

しばき教育も虐待、あまやかしも虐待。
結論から逆引きして何かを言うのは簡単です。生き残った私は両親の教育が間違ってたとは思いませんが、実際はどうだったんでしょう?
お父さん、私はドモホルンリンクル以外の仕事に就くことができました。
お母さん、もう二度と私を妊娠しないでください。

痛ましい事件のあと、ニュースキャスターがコメントを読み終えると、人々は言います。

「社会との繋がりが希薄だ」
「地域との連携を」
「誰か第三者が」
「積極な姿勢で」

みんな口々にそれらしいことを言いますが、自分たちがどうにかしようとは言いません。
絶対に、言いません。

結局、「私ではない誰かが」「ここではないどこかで」【自発的かつ無償で】やってくれないかな?という事ですよね。
対象の安全が十二分に確認できたら、気が向いた時に私も参加してあげてもいいな。そんな程度の話です。気分がよければウサギに人参をあげたい、普段の世話はいきもの係がやってね。そう言う話ですよね。


「社会との繋がりが希薄だ、誰かが支えないと」

それらしいことを言って承認を得たいだけの狂人たちを賞賛する事で、自分もその意思はあるんですよアピールして、ハイおしまい。
お疲れ様でした、帰ってピとセッセして寝てください。
社会にいきもの係はいないんです。知らなかったですよね。

もしも私が無職(または家事手伝い)で、インターネットばかりしていて、母親を殴りつけ、カードを勝手に切って、近所の子供をうっとうしいと言う粗大ゴミであったなら、父親は私を頃してくれたでしょうか。
父は私のいきもの係ではありませんけど。


免許を取った日に父親は言いました。
もしも人を轢いてしまったら、カタワで生かすより往復してでも頃せ。
別に間違ったことを言っていないと今でも思います。私も事故に遭ってあうあうあーで生きるくらいならちゃんと頃してくれと思います。私もあなたもいきもの係ではありませんけど。

あうあうあーでも生きたい人もいます。別にそれはいいです。私じゃないので。

あなた達はオチコボレた人たちを救えない。
雇えもしないし、できたら職場にいて欲しくないし、食べに行くご飯屋さんにもいて欲しくないし、友達にもなりたくない。姿の見えない工場ならギリギリOKですか?
では、あなた達のいう社会的な繋がりって、一体なんなのでしょう。
見守りと監視はなにが違うのでしょう。
いきもの係は誰がやるのでしょう。


さぁ、そろそろ本音を言いましょうよ。
間引いてしまえって。
胎内の赤子が障害者であることを理由に堕胎するのと同じです。社会から排除されて欲しいと願うのと何が違うのですか。


まだ生きている方の祖母は植物状態です。
いつまでも長生きしてねとはそういう意味ではありません。早く死ねば楽になるのに。

祖母のいきもの係である職員さんが居眠りをして窒息をスルーしてくれないか。
電源をひっかけて呼吸器が止まってくれないか。
何も見えていない目には何がどう映っているのでしょうか。怖いのでこっちを見ないでください。


知らない他人が間引かれて欲しいと願うのと、早く祖母に死んで欲しいと願うことの差ってなんでしょうか?

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