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可能性のない若者、ある若者、そして警官――『21ブリッジ』

『21ブリッジ』(2021アメリカ ブライアン・カーク監督)、緊張感に満ちて美点の多い映画だった。これは三人の映画だ。
 可能性のない若者。
 可能性のある若者。
 そして警官。


可能性のない若者

 貧しい白人レイ(テイラー・キッチュ)がよかった。
 ニューヨークはマンハッタン島で麻薬強盗を試み、はからずも警官隊と銃撃戦になったレイは、被弾して倒れた警官たちにとどめの銃弾を撃ち込んでいく。
 ここで、観客はきっとこう思うのだ。
「こいつ、なんて残酷な犯罪者なんだ!」

 けれどもしかしたら、血に飢えていない一部の観客は、こう思うかもしれない。
「……そいつら、撃つ意味あったか?」

 レイは強盗の過程で警官隊に見とがめられた。その場をしのぐために撃ち合いになるのは、(いいことではないけれど)仕方がない。
 けれど、すでに打ちのめされ、うずくまってうめくしかない警官たちを、処刑のように殺していく意味はない。
 というか、そんなことをしている場合ではないのだ。一秒でも早く盗んだ麻薬を金に換え、とんずらしなくてはいけない。

 なのに、なぜ警官を撃った? 警官が殺されれば警察は本気になる。
 単にいかれてるのか?
 それとも……レイはかつて、倒れた敵に確実にとどめを刺さなければならないような場所で生きていたのか?
 たとえば、対テロリストの戦場とか?

 そうだとしたら、このレイという男は、職業的犯罪者ではないのかもしれない。
 強盗になんか、慣れていないのかもしれない
 レイは、不意を打ったとはいえ、数人の警官をノックダウンできるほど銃撃戦に長けている。だけど強盗が予定通りに進まなかったことにびびって、力加減がわからないケンカの素人みたいにパニクって、警官にとどめを刺したのかもしれない。 

 すぐれた映像は、〈倒れた警官を撃つ〉という一つのシーンだけで、これだけのメッセージを発信できる。
 おそるべきことだ。

 実際、レイはこの後、現場からアクセルべた踏みで逃亡することで、都市のルールに慣れていないことを露呈させる。
 いくら早く立ち去りたくても、無謀な運転をすれば交通警察が一瞬で目をつける。土壇場で交通ルールを守る度胸と知識が、レイには欠けている。
 麻薬を金に換える場面でも、レイは役に立たない。相棒の黒人が交渉の算段をつけ、金額をすり合わせているあいだ、レイはタフガイっぽく恰好つけて立っているだけだ。
 彼には、何もできないのだ
 銃を持った何者かがわかりやすく自分の前に立ちふさがらない限りは、何も。

 ここまで来れば、誰の目にも明らかだ。レイは犯罪のアマチュアだ。
 彼は兵士だった。おそらく優秀でもあったのだろう。
 けれど本土では、ニューヨークマンハッタン島では、彼の流儀は何一つ通じない。銃の扱いがうまいだけでは、強盗さえ一人前にやれなかった。

 ニューヨーク市警が総力を挙げて自分たちを追っていることがニュースで流れると、レイのタフガイっぷりは限界を迎える。彼はポケットから一枚のコインを取り出す。
 観客は映像から、そのコインが、禁酒一ヶ月の記念メダルであることを読み取る。
 ここが、本当によい。

 たった一枚のメダルが、何を語るか? こういうことだ。
 レイはアル中だ。
 かつては英雄だったのかもしれない。でも今は、ニューヨークでは、一山いくらのろくでなしだ。
 そしてレイは、自分でもそれがわかっていて、立ち直ろうとしていた。社会との接点を持とうと集団セラピーに参加していたのだ。
 そのセラピーの中でレイは一ヶ月の禁酒に成功し、それを誇ってメダルに希望の光を見出し、小さなメダルをずっと持ち歩いている。

 けれど彼は今、緊張と恐怖の中で、その希望を捨てようとしている。
 レイはコインを置き、酒を飲む。
 すべて台無しだ。すべて。

 これらのことを、映画は語らない。何も説明しない。
 ただコインを映し、酒を映すだけである。
 でも、見ている者はわかる。言われなくったって、わかる。
 レイはここで死んだのだ。

可能性のある若者


 黒人の相棒、マイケル(ステファン・ジェームス)がよかった。
 彼は最初、びびっているように見える。タフなレイにくっついてきた、若造に見える。
 情報よりもはるかに多い麻薬を前に、マイケルは手を引こうと言う。何かがおかしい、と。優柔不断に見える。
 だが正しい
 誰かの物に決まっている麻薬を強奪しようというのに、それが予想以上に大量だったら、「思ったよりヤバイ相手のブツじゃないのか?」と警戒するのは理にかなっている。

 銃撃戦になるとマイケルは、警官たちに下がるように言う。レイの不意打ちで勝負はついた。立ち去れば後ろから撃ちはしないと。腰抜けに見える。
 だが正しい
 警官を殺せば、ニューヨーク市警は本気になる。ホールドアップしても、裁判を受けさせてもらえる見込みさえ薄い。

 強盗現場から逃げる時、マイケルはレイに、もっとゆっくり走るように言う。レイが信号無視する場面では、とっさに顔を伏せる。監視カメラに映らないためだ。
 ここまで来れば、観客にもはっきりわかる。
 頭が切れるのはマイケルの方だ。越えればやっかいなことになる一線が、よくわかっている。マイケルはタフではないかもしれないが、都市や犯罪の暗黙のルールは、レイよりもよく知っている。

 足手まといの若造に見えたマイケルは、地域のボスと厄介な交渉をまとめ、奪った麻薬を大金に換える。その金をどう使うか。
 彼は、警官を殺した以上、強盗で奪った大金をすべて投げうってでも逃げなければ、待つものは射殺しかないとわかっている。金は身元の偽装とチケットにつぎ込む。
 彼はクレバーだ。
 そして、注意深い観客は、もしかしたら気づくかもしれない。
 彼は銃を振りまわす危険な男だ。だが一発も、誰にも当てていない。そもそも狙ってすらいない。すべて威嚇だ。
 マイケルは、警官を殺せば厄介になるからという以前に、そもそも誰も殺したくはない人間なのだということが、言葉ではなく行動で示される。

 追われるマイケルはホテルに逃げ込み、ノームコアを着込んだ成功者から服を奪って変装する。
 ここが、いい。
 マイケルは目端の効く犯罪者だ。彼について知る者は、彼のことを、別の町に生まれていればなんにでもなれたと評した。ニューヨークに生まれたから、犯罪者にしかなれなかったのだ、と。
 観客は、ノームコアを身に着けたマイケルを見て、その評価が正しかったことを知る。

 成功者っぽい服を着て、成功者っぽい歩き方で、成功者が泊まりそうなホテルにいるマイケルは、あり得たかもしれない彼自身の別の人生を体現しているようだ。彼は成功者だ
 生まれた町が違えば、家族が違えば、学校が違えば、マイケルはこう生きられたかもしれない。一着の服がそれを表現する。
 でも、見ている者はわかる。言われなくったって、わかる。
 もう遅いのだ。

警官

 警官アンドレ(チャドウィック・ボーズマン)がよかった。
 彼は、警官殺しを射殺した過去がある。査問を受けたし、処刑人とも呼ばれる。彼には警官殺しを撃ってしかるべき過去がある。犯罪に対する復讐者、それがアンドレだ。
 と、周りは思っている。

 レイとマイケルが起こした警官射殺事件に呼ばれたアンドレは、現場を一瞥して、どこで誰が何をしたのか、それはどの順番で起きたのかを見抜いていく。
 観客はここで、このアンドレという男は粗暴なのではなく、きわめて冷静なハンターなのだと知る。
 犯人がまだマンハッタン島に留まっていると推理した彼は、島に架かる21の橋をすべて封鎖することを進言する。

 正直なところ、このマンハッタン島封鎖は、映画そのものにさほど影響を与えない。シカゴでもロサンゼルスでも似たような映画を撮れたと思う。物語的には、販促ムービー用の「引きの要素」の域は出ない。
 けれど物語を離れたところで、島の封鎖は大きな意味を持つ。
 アンドレはクレバーだけれど、いかれてる。
 彼は、犯罪者を狩るためには市長も政治も全部利用し尽くす、覚悟の決まった警官なのだ。

 アンドレは、犯罪者を憎み、ホールドアップした相手でさえ容赦なく撃つ、パニッシャーのような狂気の復讐者なのか。
 そうではないことを観客は知っている。アンドレは徹底して理性的な(だが、いかれた)警察官だ。
 彼はただ、犯罪との闘いに斃れた父の葬儀で神父が言った、三つのことを守っているのだ。神父はこう語った。

 一つ。道義心を持つこと。
 一つ。善と悪の判断は自分で下すこと。
 一つ。時に残酷なこの世界を、受け止めて生きること。

 警官アンドレが、オープニングシークエンスで語られたこの三つの困難を実践する過程、それが「21ブリッジ」という映画だと言える。

 アンドレはレイとマイケルを追う中で、違和感を持っている。
 二人の警官殺しを追う足取りはいささかもゆるめはしないけれど、何かおかしいことには気づいている。
 この、「何かおかしいと気づいている」「だが犯罪者を追うことはやめない」の両立に、アンドレのプロフェッショナル性があらわれる。

 やがて事件は解決し、警官たちは歓呼でアンドレを出迎える。
 この場面が、映画全体を通じての白眉、圧巻だ。
 アンドレは賞賛の中、現場(グランドセントラル駅だろうか)を後にする。笑顔と喝采の中をアンドレが歩いていくスローの場面は、この映画の圧巻であり、恐怖に満ちた映像だ。
 いまやアンドレは、今回の事件を引き起こしたものが何であったかを知っている。
 彼は車と監視カメラと銃とで事件を終わらせた。だがここからの戦いは、「フリーズ!」「カバーミー!」と言いながら銃を振りまわしても勝つことはできない。
 そのことを、アンドレの表情が語っている。賞賛のシークエンスは、絶望のそれでもある。
 この場面でアンドレは笑っていない。

 チャドウィック・ボーズマン演じるアンドレは、削いだような風貌の男だ。彼は決して体躯に恵まれたマッチョではない。
 ゆえにこの映画は、マッチョがマッチョさによって正義を成す物語ではなく、普通の人間が、意志の力で正義を成そうとする物語となった。
 当時ボーズマンは病気と闘っており、あの細い体は、それゆえだった。ならば、あの凄みのあるアンドレは偶然の賜物、病気がもたらした怪我の功名としての、役の成功だったのだろうか。

 そうではない。ボーズマンは、体力が落ちたのならば、落ちたからこそ出来る演技を貫いた。
 彼の勇気と不屈の意志こそが、成功を引き寄せたのだ。
 この映画がボーズマンの遺作となる。

そして

 素晴らしい犯罪映画は、アンドレが現場を去る場面で終わった。
 その先は、刺激に飢えた観客(あるいは、観客は刺激に飢えていると信じているプロデューサー)のための刺激である。銃で戦えない敵を見出したはずのアンドレは、その敵を銃で倒してしまう。
 そうでなければ「すっきり」しないというのは、その通りだろう。
 すっきりするべきだったのかどうかは、わからない。

 ただ、こうは言える。ラストのシークエンスがなければ、私はここに、「21ブリッジ」は小ぶりながら緊張感に満ちた犯罪映画だったと書いているだろう。
 そう書けないことを、少しだけ残念に思う。

 いい映画を見ました。

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