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おめぐみ

もうほとんど聞くことがない言葉じゃないかと思いますが、『お恵み』って昭和時代にはよく見聞きしました。

物乞いをする人が、まだ街中にいた頃の言葉かと思います。この『お恵み』、望んでいないのに握らされたことが数回あります。

当時小学生だったので、初めてお金を握らされた時は、とても驚いたしその小銭を渡してきた女性はすぐに離れていったので、ポカンとあっけに取られました。帰宅して母親に話し、このお金はどうすればいいのか訊いたところ、無表情に「もらっておけ」と言うだけでした。

後に車イスの方が、自分と同じようにやはりお金を握らされたのを偶然見て、初めて意味を知りました。その車イスの方は、手にしたお金をじっと見つめて何とも言えない表情をしていました。

車イスだから、補聴器をつけているから、というだけでお金を貰えるなんてラッキーと考えたことはなく、なんで可哀想と思われるの?可哀想だからって、お金を渡して何になるの?と、やるせない気持ちになりました。

そんなことを思い出させる出来事が、最近ありました。

知り合いの飲食店で、自称『修行』という名の接客をやらせて頂くべく、露店販売を担当させてもらったときのことでした。補聴器着用とはいえ、やはりマスクしたままでの対話はとても難しくて、何度か「耳が聞こえないので、マスクを外して口を見せて頂けませんか?」とお願いしました。女性だと特に気負いなく、口元を見せて頂けました。ただ、男性数名の方が逆に気を遣われて申し訳なく思われたのか…

一人の方が、「そうか、耳が聞こえないんですか…」と仰ってお釣りを断られたのです。例えばその一言がなければ、先の話を思い出すことはなかったんじゃないかと。飲食店でも「お釣りは結構です」と仰るお客様はおられると思いますが、私だから気になる台詞ではありました。

憐れみは必要ありません。同じように働いているだけなので、せめて「寒いけど頑張ってね!」だけに留めてもらえたら、より一層頑張れるのにな、などと考えてみたり。

それでも、そのお釣りは私にではなく、お店の売り上げになるので有り難く頂戴致しました。スムーズなコミュニケーションが出来るように、あらかじめ聞こえないことを伝える必要が出てきます(併せて筆談か読話のお願いをしています)が、社会の一員として自分を入れてくれないか、と令和の今でも考えてしまうなんて、と感じています。

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