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「言葉は『何を言ったか』より『誰が言ったか』の方が大事」〔クリシェ【凡百の陳腐句25-1〕

「言葉は『何を言ったか』より『誰が言ったか』の方が大事」

とはよく言われるが、間違いではない。

例えば、

「牛乳を飲むと睡眠の質が良くなる」

の言葉を、ただの健康オタクが言うのと、医者や管理栄養士が言うのとでは、信用の度合いが違うのは否めない。

だからこそ、注意せねばならない。

「誰が」と「何を」は、別物だということを。

例えば、

「私の職業は"人間"です」。

この言葉を"僕"が言えば、

「あぁ、そうなんだ(よくわかんないけど)」

となる。

(あるいは"知っている人"は「あの人のファン?」となるかもしれない。)

しかし、

「岡本太郎」の言葉だと言えば、

「おぉ!そうなんだ(なんか深い意味がありそう)」

となる。


「生きるとは、魂を磨くことだ」

"僕"が言えば、

「なんの宗教にハマったの?」となる。

しかし、「稲盛和夫」の言葉と知れば、

「おぉ!さすが稲盛先生!素晴らしい!」

と"信者さながら"のリアクションを見せるかも知れない。

これら二つの言葉は、彼らの死後も残ってはいる。ただ、「万人普遍のマインド」にまで至っているとは言い難い。

「あなたの職業はなんですか?」と問われれば、

岡本マインドなど1ミリも頭によぎることなく、

「弁護士です」
「フリーライターです」
「〇〇社社員です」

と、各々の職業を応えるだろう。

「魂を磨く」

ことを念頭に置きつつ、仕事に邁進し、あるいは幸せな家庭を築いている人など、稲盛和夫を私淑する者以外は皆無であろう。

これら二つの言葉は、発言者の権威性に対し言葉の真理性が遅れている。

言い換えれば、「誰が言ったか」に「何を言ったか」が追いついていないケースだといえる。

そうでなければ、「僕が言っても、誰が言っても、しかり」になるはずだからだ。

確かに、「言葉は『何を言ったか』より『誰が言ったか』の方が大事」である。ゆえに、「誰が言ったか」に「何を言ったか」が引きずられるのは、ある程度仕方がない。

しかし、ロジックの効果性・真理性と発言者の信用性・権威性は、本来"別物"だ。


発言者がすごい人だからといって、言葉が自分にとって役にたつとは限らず、はたまた人が気づかぬ普遍的な真理を言い当てているとは限らない。

逆も然りで、発言者によって、言葉の効果性・真理性それ自体が揺らぐこともない。

正しいことは、誰が言っても正しい。

「カエンタケ(※)を食ったら死ぬ」

の真理性は、誰が言っても変わることはない。


ゆえに、両者は峻別して考えなければならない。

そうでなければ、「偉人の空言」に惑わされ、「プロの助言」により損失を出し、果ては「毒キノコ」を食べてしまいかねない。

もっとも、自分で考えたとしても、間違うときは間違うのだが。

(※カエンタケ:日本に自生するキノコの中でも最強クラスの毒性を持つ毒キノコ。致死量はわずか3gで、触れるだけで皮膚が炎症を起こす。山林や自然公園に普通に生えていることもあるが、見つけても絶対に近寄ってはいけない。
僕は菌学者ではないから、上記説明に対する権威性を持たないが、絶対に聞いておいた方がいいはずだ)。

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(参考図書)

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