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アンチ体罰の巌となりて -『イタイのはいやだ』〔クオート【書籍の軌跡】2〕

 いまだに学校の体罰がなくならないらしいが、ぼくは絶対的な体罰反対論である。

 これは、数学者・故森毅先生のエッセイ『イタイのはいやだ』の序文である。

 体罰反対論は、今でこそ社会的潮流になっているが、このエッセイが掲載されている『あたまをオシャレに-大学番外地から』(森毅著 筑摩書房)が発売されたのは1989年

 つまり、(2022年6月)から30年以上前に、森先生は「体罰反対」を明言されている。「さすが…」という想いだ。

 さらに敬服するのが、森先生が1928年生まれという点。つまり、体罰が当たり前のように行われていた、戦後昭和のさらに以前。個人の尊厳など微塵も重んじられなかった戦前に、幼少〜少年期を過ごされたということだ。そんな環境で育ったのであれば、「自分たちもなぐられて育ったのだから、子どももなぐられてよい」という考えに染まりそうなものである。

 それにもかかわらず、先生は

自分たちもなぐられて育ったのだから、子どももなぐられてよい、というのは妙な論理である。

それでつい、同窓会などで、たたかれたのも懐かしい思い出などと言い出す人が現れたりするが、そんなのは少しも懐かしくない。記憶の上では、イタイのは、死ぬまでいやな思い出である。教師は、ぼくのような子どもには、一生恨まれる覚悟で体罰してください。

 教育のため、というのは嘘だ。たたかれて賢くなる人間がいるずはない。いや、なかにはそんな妙な人もいるかもしれぬが、すくなくともぼくなら、意地でも賢くなんかなってあげない。

ということを、同エッセイの中で明確におっしゃっている。1989年当時、60代の大学教授が、である。なんとも小気味いい。

 なお、体罰の教育的効果は、現在科学的に否定されている。ゆえに「たたかれて賢くなる人間がいるずはない」はまったくもって正しい。数学者ゆえ、もしかしたら知っていたかもしれぬが、ならば「なかにはそんな妙な人もいるかもしれぬ」という言い方はしないだろう。御明察、恐れ入る。

 しかし、周知の通り「いまだに学校の体罰がなくならない」状況は、先生の提言から30年以上経つ「令和の世」においても"いまだ健在"である。森先生ほどの賢者をもってしてもなお、"堰き止めるのは至難"という事実にため息をつく。

 僕も、平成育ち。当然のように"目にした"こともあるし、僕自身も"食らった"こともある。

 小学生のとき、某アルファベットのつく学習塾で、Sというやつに思いっきりビンタされたことがある。当時は「お前のためにやったんだ」というマッチ・ポンプ式物言いに諭され、抗えなかった。大人に今、「あのとき、僕のためになぐってくれてありがとー」なんて想いなど一切無く、「恨み」100。ガンガンにネタしてやることと、俺の子どもは絶対にその塾には入れてやらないことで許してやる、という想いだが

 なお、「どうせ悪いことしたんだろ?」という(これまたクリシェな)反駁には、以下の引用をもって反論する。

 悪いことをしたのだから、たたかれても仕方ない、などと言う人もいる。なにも悪いことをしていないのに、たたかれたりしたら、そんなのは論外である。悪いことをしたからたたかれるので、それでもたたいた教師は、悪いことをした子どもよりもっと悪い。それが体罰禁止の趣旨である。

 ところで、「いまだに学校の体罰がなくならない」原因の一つとして、「自分たちもなぐられて育ったのだから、子どももなぐられてよい」。まさに、このマインドセットが親・教師の間にいまだ根強いからだと考えられる。

 厄介なことに、自分がたたかれたのは「悪いことをしたから」だという自覚と反省が、体罰の正当化をより強固なものにしている(かくいう僕も「確かに"悪ガキ"はいるのだから、ちょっと位の体罰はいいんじゃない?」と思っていた時期はあった。今では「完全否定」だが)。

 まさに、世代をわたる「体罰肯定の流れ」。「体罰肯定」に流された岩が、下流の岩にぶつかり、傷つけ、押し流し、それがさらに下に続いていく「負の河川」。

 森先生は30年以上前から、この流れに抗い、はっきり「否」を示していた稀有な存在であった。まるで、"一つだけ流れに抗い、川底に根づいた岩"のように。

 しかし、いかに森先生といえど"多勢に無勢"。流れそのものは止まらず、岩の上や横をすり抜けていく。結局、「いまだに学校の体罰がなくならない」状況は変わらなかった。その間、幾多の才能、下手をすれば命そのものが、無能でつまらぬ大人の自己満足のために潰されたか。本当に惜しい。

 ただ救いなのは、今は「根ざす岩」が増えつつあることだ


 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンによると、子どもへの体罰「容認」が2017年には56%だったのが、2021年には41%に減少したという。
 「体罰が今の自分にとってプラスになっている」と答えた20代は0%だというアンケートもある。
 直近の九州の某高校に対する、世間の反応を見れば"言わずもがな"だろう。

「根ざす岩は増え、流れは変わりつつある」。

 「体罰否定の岩」が数多く集まり、根ざすようになれば、いずれ「巌」となって、流れそのものを堰き止められるようになるだろう。

  かつてはなあなあだった「飲酒運転」が、今では完全な「社会悪」となっているように。

 もっとも、そうなるにはもう少し時間がかかるかもしれない。

 なので、まずは自分が「岩」になるべきだ

 もし、自身が過去体罰を受けたならば、はっきり「否」を出し、自分の子どもには及ぼさせないようにする。それが「憎いアイツ」を否定し、子どもの才能開花を妨げる要素を排除し、ひいては「体罰の社会悪化」につながるのだ。

 心配は要らない。体罰をはっきり否定してしながら京都大学の教授になった人物がいる。自分も、自分の子どもも、そうなれる。

 体罰など、幸せになるのに「邪魔」なだけだ。

 最後に、『イタイのはいやだ』の結文をもって締めとする。

 大学で教授が助手をなぐったり、会社で部長が平社員をなぐったりすると、かなりいびつだろう。軍隊とか、暴力団とか、暴力を商売にしてるところはそんなこともあるかもしれぬが、おとなの世界では、体罰はまずない。おとなの世界になくて、子どもの世界にだけあるのは、やっぱり変だ。


(参照したエッセイ)

『あたまをオシャレに-大学番外地から』P111〜115 表題『イタイのはいやだ』(森毅著 ちくま文庫)

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