ラザニヤ避け

 パイカたんと電車に乗り込み、出勤する。僕は歯を食い縛って、ドア横にチョンと収まっている彼女を満載の怪物から守っている。電車がぐわん、と揺れて大きなカーブに差し掛かった。怪物が鎌首をもたげる。人に、扱える巨きさではないぞ。
「しっかり立つのよ」
 彼女が僕をなじる。ちくしょう、そんな言われざま、あんまりだろうが。
「む、むりだよ。腕がいたいんだ」
「こらえ性の無いひと。あなた、わたしと付き合っているんでしょう。こなしてくれないと、困るわ」
 到着まであと七駅というところで、怪物がいよいよ牙を剥いてきた。ドアが開かれたとたん、乗客がなだれ込む。みじめに抵抗していた僕はプチっと止めを刺され、あわれな水溶生物のごとくビチャっと彼女に覆い被さる。
「せまいわ」
 きわめて平静な声色が僕に届く。車内は怪物だらけで顔を動かすスペースもないから、彼女の肩に顎を置くしかない。
「ごめんよ、ごめんよ」
「あなたはだらしないことね。やっぱり、ラザニヤを、焼かなくてはならないわ」
 おそろしい言葉が耳元で囁かれる。
 ラザニヤ。ラザニヤがなんだというのか。フツフツと怒りがこみ上げてくる。あてつけだ。そんなこと、あってはならぬのに。そういうことだろうよ。いま、君のために戦っている僕より、オーブンで焼かれるだけのラザニヤがいいのか。彼女はきっと、侵食されているのだ。事実として、密着している僕の身体は何よりも熱く彼女の体温を感じている。それは紛れもない、ラザニヤの証明だ。
 駅に着き護衛業務が終わる。へとへとだ。
「いくらなんでも疲れすぎだとおもうの」
「そ、ソレは君を護って、いたからだね」
「何を言っているの。あなたはずっと座っていたでしょ。へんなこと言ってないで真っ直ぐ会社に行くように」
 何でそんなこと言うの。ありえないだろうが。
「いってらっしゃい」
 彼女はぷっくりした唇を歪める。その皮肉っぽい所作に僕はびくつきながらも、怪物たちの群れに加わる。改札を出る。
「なぜラザニヤが増えているの」
 仕事から帰宅して最初の感想がコレだ。
 部屋のど真ん中、生活空間の大半のスペースを確保するように、ラザニヤが積まれていた。腕の良い石工が重ねたかのように組み合わされている。丁寧に裏ごしされたソースとじっくり焦がされたチーズ、良質なワインで煮込まれた挽き肉の香りが充満していた。
 彼女はコトコト煮込んでいた。ソースをこれでもかと。
「ウッ。パイカたん、君は、何をしているの。ワケ分からないだろうが」
 僕は換気のために窓を開け放つ。エプロンをひらめかせる料理人を問い詰めた。しかし当人はラザニヤを作るのに忙しい。
 ぼうぜんと積み上げられたラザニヤ見上げ、僕は何かにハマってしまった感覚に陥っていた。罠と呼ぶには香ばしすぎる。こんなに作ってどうするんだ。何に使うんだ。
「せめて教えてくれないかな、何を何を、やりたいの」
 ひらりひらりとエプロンがミートソースをはらってゆく。朱い雫は床に落ちないから、フローリングはピカピカだ。それは分かる。分かるがね。
 すっかりくたびれた僕は、ラザニヤと和解することなく、隅っこで布団を敷いて寝た。
 次の朝起きてもラザニヤがあることに辟易しつつ、パイカたんと出勤する。護衛業務は僕の役目だから仕方ないところである。
 おそろしい怪物に背を向けて、彼女をドア横に避難させる。
「あのサ、ラザニヤはなんな、なんなのかな」「ああ、ラザニヤね。ラザニヤじゃないわ、あれは」「じゃないの」「そうに決まっているでしょ。おかしなひと。避雷針よ。そうでしょ?」
 電車がカーブに差し掛かり、重力がひとかたまりになって僕たちにこびりつく。
「あれは避雷針じゃないだろうよ。芯が無いんだから」「それなら貴方がどうにかして。そしたら結婚してあげる」
 冗談じゃない。僕にあの邪魔なオブジェを完成させろというのか。芯をもって完成したら、いよいよ僕らの生活に定着してしまうじゃないか。君は、それをよしとするのか?
 プシュウ、と開いたドアと一緒に僕は排セツされることを選ぶ。知るもんか。避雷針だって。そんなの、ひどいだろうが。避雷針は僕と彼女が出会って、僕が告白したところだ。熱雷の夜、僕は避雷針の下で告白して、彼女に笑われたのだ。その確固とした記憶がある。断じてラザニヤであろうはずないもの。
 パイカたんは怪物の群れに阻まれこっちに来れない。僕は駅中のクレープ屋の前で止まり、注文する。そう言えば彼女の手料理以外を食むのは初めてだ。そうだろう。くにゃくにゃした甘さを食べていると、サァーッと頭が、アァモウ、冴え冴えだ。ソリャ、仕事を辞めよう。そうすれば護衛することもなくなるし、ラザニヤのことも、分かってやれるかも、しれないだろうが。
 ヨロヨロ立ち上がり改札口に向かう。パイカたんは僕に追い付き、ラザニアを食べさせる。口から溢れた一辺がドチャリと泥のように散らばる。
「ねえ、どうして分かってくれないの? 結婚してあげるって言ったでしょう。あなたは芯を持ってくるだけでいいの。それを手伝って欲しいだけ。本当に、それ以外に望んでいないのよ」
 パイカたんの切羽詰まった声色に、僕はハッとする。

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