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他空派の宗論⑥

今回から「経証」という言葉が多くなる。

「経証」とは、
「お経のあかし」という意味で、

ある主張を証明する根拠となる
テキストの引用を指す。

引用するテキストには
仏陀の言葉(経典)も
仏陀以外の著者の言葉(論書)もある。

第三項[まさしくそれが、輪廻と涅槃全ての基であると示す]において、[経証をあげる][経証の意味・輪廻と涅槃の基の仕方]のニより、

第一項[経証をあげる]において、[経典の経証][論書の経証]のニより、

第一項[経典の経証]は、大乗の阿毘達磨経より、「無始の時をもつ界は、全ての諸法(現象)のよりどころであり、それがある故に、全ての衆生とって、涅槃も得られるものである。」などである。

ここでの「界(dbyings)」は、法界を指す。

第二項[論書の経証]は、『大乗究竟一乗宝性論』より、「そのごとく諸々の蘊と界と根は、業と煩悩にとどまる。業と煩悩は正しくない、作意に常にとどまる。正しくない作意は、心の清浄によくとどまる。」などである。

ここでの「蘊と界と根」の「界(khams)」は、
六境六根六識を足した十八界の「界」である。
(他空派の宗論④参照)
https://note.com/dechenblog/n/n8aa3bdc40286

仏教用語の漢語訳は、
時に違うサンスクリット語やチベット語等を
同じ漢字にあてる。
日本の仏教用語も漢語から来ているので、
原典(ここではチベット語)を読めると
ありがたいことも多い。

「根」は目耳などの感覚器官の意味と、
「二十二根」などで使われる各種の機能の意味がある。

第二項[経証の意味・輪廻と涅槃の基の仕方]において、[涅槃の基][輪廻の基]のニより、

第一項[涅槃の基]とは、勝義の法界は、それ自体の本質が勝義の涅槃であるが、それを対象にして瞑想することによって一時的な汚れが尽きた涅槃を得なければならない故に、それは新しく起こる涅槃を得させる因である面から、それ(勝義の法界)はそれ(涅槃)の基であると示した。

第二項[輪廻の基]とは、法界そのものが輪廻の直接の因ではないけれど、例えば金の不純物や水の濁りのように、世俗である一時的な輪廻も、本性は光明である心と、「性質」と「性質をもつ主体」のあり方で、「よりどころ」と「よるもの」の関係性より定まる部分から、それ(法界)はそれ(輪廻)の基であると示した。

「一時的な汚れ」は煩悩など、
解脱や仏陀の境地を得る障害になるものを指す。

何故「一時的」なのかといえば、
仏陀の境地を得たあかつきには
それはもう無いからである。

[涅槃の基]の項から分かるのは、
本論で説く「勝義の法界」は、
①もともと無始の昔からもっている法界と
②もともとある法界を対象に瞑想して、新しく得る法界(法身)
の、二種類あることだ。

法界は二種類あるけれど、
得てしまえば本質は同じなので
別物ではない。

[輪廻の基]の項から、
「世俗である一時的な輪廻」とは、

究極のあり様である勝義ではないから「世俗」
解脱を得た時には無くなるから「一時的」

そのような輪廻は、
光明の本性をもつ心と、

金(光明の心)と不純物(輪廻)のように
水(光明の心)と濁り(輪廻)のように

性質をもつ主体(光明の心)と
性質(輪廻)として

よりどころ(光明の心)と
よるもの(輪廻)として

ともにある。

一時的な煩悩などの汚れによって
輪廻は映し出されるけれど、

法界と不別の光明の心は

輪廻の映像が映される以前の
何も上映されていないスクリーンが
上映が始まると映画の世界にかき消されてしまうように、

いつか輪廻の章が
終わりを迎えれば真っ白に戻り
ただそこにあるスクリーンのように、

常にあり続けると

説くのであろうか。

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