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Call a priest I'm Catholic

思えばずいぶん長いこと、自分の信仰に確信を持てずにきた。けれど、私はきっとカトリックでいい、いや、カトリックがいいのだ、突然そう思った。

"Call a priest I'm Catholic" とは、カトリック信者が身につける祈りの道具「メダイ」の裏にそっと書かれている文句だ。「(私の身にもしものことがあったら)司祭を呼んでください、私はカトリックです」。

いまわのきわに誰にどのように送られようが、人は死ねば神のもとに行く。いや、生きているときからいつも神に包まれている…… 私はそう信じている。だから、私が死にそうになったからといって別にカトリックの司祭を呼んでほしいというわけではない。イタリアでもなし、そのへんにカトリック司祭がうろうろしているとも考えにくいし、司祭だって人だから正直言ってピンキリだ。だから、死ぬときにそばにカトリック司祭がいるかどうかは、私の信仰生活に特段の影響を与えない。

というか私はむしろ何年もの間、仏教に改宗したほうがいいのではないかと悩んだりしていた。小さな頃から親しんでいるのは浄土真宗だし、お寺が大好きだ。最近も、マインドフルネス瞑想に救われたり、カトリック界隈のいろいろな前時代的な面倒事に飽き飽きしたり、一神教を信じるのにはかなりのエネルギーが必要なことに気づいたりして、仏教のほうが「楽」なのではないかと感じるようになっていたのだ。

それでしばらくの間、試しに別の宗教の信徒になった自分をリアルに想像してみていた。たとえば聖公会に移った自分、浄土真宗に移った自分を。

そうしたら驚いたことに、なんともいえず寂しい。寂しくてたまらない。自分がカトリックであった時代を懐かしいと思い返す。この寂しさ懐かしさはなんだろう、どこからくるのだろう、とつくづく味わっていて、きょう急に「ああ、私はつまるところカトリックなのだ」と腑に落ちた。

「Call a priest I'm Catholic」と裏に書かれたメダイをそっと身に着けて歩く人生も悪くない。

確かに仏教の持つさまざまな要素も私を救ってきた。仏教がこの世になかったら、私はいま生きてはいないだろう。けれど、私の霊的な血族はカトリックの系譜にある。だから私はカトリック(形容詞)だ。そう自覚した。

私の霊的な父は唯一創造神であり、霊的な母は聖母マリアだ。女性の聖人はさしずめ姉、男性の聖人はさしずめ兄。現教皇さまは言うなれば、2000年続く一族の脈々たる秘密を受け継ぐ、偉大な長。私は霊的にはそうした、とても大きくて普遍的な(catholic)家族の一員。そういう意味で私は間違いなくカトリックだ。

おいおい、キリスト教徒のくせにナザレのイエスの話が出てこないのか? もちろん忘れていない、ナザレのイエスは…… なんともいえない、ただ、とうぜん大事な救い主だ。彼が父のひとり子であるなら、もしかすると優しくて酒好きで、大仰なたとえ話の多い伯父さんでもあるかもしれない。

ゴータマ・シッダルタや種々の菩薩も実をいえば私にとって救い主で、ナザレのイエスと立ち位置はさして変わらなかったりする。ちなみにカトリックのシスターやブラザーは言葉どおり姉や兄で、天使や仏教僧たちはというと、頼りがいのある友だ。

お寺にもお参りする、ブッダにも助けられる、マインドフルネス瞑想をする、カトリックの組織の旧態依然に呆れる。けれど、毎日カトリックのメダイを身につけ、触れ、祈りに使う。そんなふうにして生きていくのでいいのだ。

Call a priest, I'm Catholic.

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30を過ぎてカトリックで洗礼を受けたものの、仏教を代表として世界中の宗教が大好きな宇樹。宗教的な話題について、Twitterでは書けないセ…

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