見出し画像

断食をして能力が開花した体験談

6年前、実はガンになったことで必然と食べなくなったといった経緯があるのですが、その時、体の中の毒素を出す為に、何回かに分けて断食をした期間があります。断食を繰り返したことで、麻痺していた脳がクリアになり、感覚が蘇ってきたことで能力が開花したのです。ですが2週間断食なのどの無理な断食はしませんでした。体に負荷がかからない程度に何回か体を慣らしていくといったことを意識しファスティングをしたのです。

断食をして能力が開花していく中で、眠っているマインドから目覚めていく覚醒へと繋がる大きな気づきがたくさん起きたことをお話ししていきたいと思います。

「食に関するスピリチュアルな視点」

食に関するスピリチュアルな視点から、まずはお話していきたいと思います。日本では日本食以外にも各国の様々な料理を楽しむことができ、世界と比較してもとてもレパートリーが豊富な国です。日本人は食を楽しむことについても、これまで多様な文化を受け入れてきた経緯があります。

そのため、TVや雑誌などのメディアやSNSでも食べることをテーマとした情報が世の中には溢れています。

一方で、ダイエットやファスティング、オーガニックやデトックスなど食に関連した情報にも人々の関心が注がれています。そもそも食は「衣食住」と言われてきているように、人々の生活の基本となり、生きる上でとても重要な位置を占めるものになっています。

その「食べること」について、私のこれまでの経験やスピリチュアル的な視点を交えて、断食をすると、どんな変化があるのか?なども含め大切なことを大きくお伝えしてしていきたいと思います。

断食は「食への執着心」からの脱却となります。

日本では、人間の三大欲求として「食欲、性欲、睡眠欲」と言われています。しかし、これは日本人特有の表現であり、日本では、三種の神器など物ごとを三種で表す歴史や文化があったことの影響があると言われています。

ただ、日本人にとって、1日3食、決まった時間に食事をすることは習慣化されていますし、食がストレスの発散方法の一つにもなっています。

1日の食活動では、何を食べるか考えるという思考に食事の時間、そして食事を消化する活動など、とても多くの時間が食に対して使われていることがわかります。

一方、食を生産する側の視点では、食事は経済消費ですので、TVを付けると食を喚起するCMなど、いかに多くの消費行動につながるようにするか、生産側からのアプローチを常に受けています。

例えば、日本とアメリカの関係においても、アメリカはいかに小麦や牛肉を消費をさせるかというアプローチは、戦後のGHQの政策にも紐づいてくるものでもあり一種の文化の植え付けとしての影響もあるかと思います。

食という人間の基本的な欲求に対しては、これまでの「食欲、性欲、恐怖心」を煽り、コントロールを目的に我々の思考が安易に眠らされてきたという事実もあります。

その中で、私たちの脳は、食べれば食べるほど脳の快感が刺激され、その快感の記憶と食べられなかったらという恐怖心によって、常に脳が刺激を求めるようになっていきます。

並行して、日本の食事には、大量の食品添加物によって、いかに安価で口に入れた瞬間から美味しいという快感が味わえる様な古来の食文化に反する状況に変化してしまったため、需要と供給が助長しあうという関係が生まれてきてしまいました。

脳は刺激されると更なる刺激を求めます。

自分の脳のコントロールが効かなくなってしまっている状況にあると気づくことが、スピリチュアルの視点においてもこれから重要なポイントとなってきます。

では、ここで断食をしたことで起きた変化を2つにまとめて伝えしていきたいと思います。

私の体験談①:食への欲求

以前、私の覚醒体験において、「癌(がん)」の経験から、食事が食べれなくなったことについてお伝えをさせていただきました。

治療の一環として、体内の毒素を排出する必要があるため、数回に分けて断食を行ってきたという経験があります。これまでは、食べることが当たり前で本能のまま食を求めていましたが、強制的に食べることを制限されたことによって、食に対する認識が大きく変わりました。

当然はじめは、食事が減らされることで、空腹感が襲ってきます。とにかく食べたいという脳からの信号が絶え間なく発信されてきます。

そして、同時に食べられないことに対する恐怖心も生まれてきます。

1回や2回の食事では、そこまでを感じることはありませんが、1日、2日と日を重ねることで、脳からはより本能に訴えかけるメッセージが送られてくるのです。

この経験を繰り返していく中で、物理的な毒素の排出に加えて、私自身の食に対する考え方にも大きな変化が生まれてきました。

これまで「食べないこと」がストレスであった思考よりも「食べないこと」の快適さが優っていく様になってきたのです。

すると、これまでの「食べること」に対する、無意識レベルの選択や行動は、ただ脳の欲求を満たしてただけだったということに気付いていったのです。

いかに多くの時間を食への執着を満たすことに費やしてきたのかということを真剣に考えていく様になったのです。

食べ物を選択する時間、食べる時間、消化する時間、特に消化する時間は、1食につき、平均で約6時間と言われています。

そう考えると、1日3食とした場合、消化時間だけでも、18時間を必要とする体にとってはとても大変な活動なのです。

食への脳の暴走には、これまでは全くストッパーが効かない状態でしたが、そこから脱却し、冷静に何を体に取り入れていったら良いかと考え始める様になったのです。

以前は常に「お昼は何にしようか」「小腹が空いたな」「口が寂しいな」などといったように四六時中、気がつけば食べることを考えていたのですが、不思議と食べることさえも考えることがなくなっていったのです。

当たり前のように暇があれば何か食べることを常に考えていたので、いかに「食べることを考えている時間が多かったのか」ということにも気付ける、きっかけにもなりました。そこにも大事なエネルギーを使っていたのだと驚いたのです。無意識に知らず知らずにストレスだったのだと知ったのです。

食べたいけど、食べると太るという焦りや、お腹いっぱいなのに、食べたくなる欲求を抑えられないことや、常にどうやって満たすかを考えていたのがストレスだったのですが、それが無くなったのです。

考えないことが、こんなにもノンストレスなのだと一番に実感したことです。

私の体験②:食の概念の変化

こうして物理的に食べれないという強制的な環境によってですが、食に対する価値観が大きく変化していくことになりました。この価値観の変化によって、外れた私のマインドは何だったのか。

それは、「食べる量が少ない=空腹=不健康である」という思い込みです。

実際に満腹感を味わっていないときのほうが、身体的にはメリットが大きかったと感じます。頭は、より鮮明にクリアな感覚が維持され、集中力が高まっていきます。

また、胃にモノが全くないときのほうが、口に入れる一つ一つの食物の味、食感、口から喉を通過し、胃に収まるまでの過程、そして胃で消化され体に栄養として行き渡っていく感覚など食べ物自体が持つエネルギーを感じることができる様になっていきました。

食事の動作一つ、味わうこと、栄養を蓄えることなどその一つ一つを五感で感じることができる様になっていくのです。

その結果、食べることは私にとって今まで味わったことのない満足感を与えてくれるものとなりました。そして、食事は量から質に変化し、より体は快適になり、体はいつも五感が研ぎ澄まされた状況になっていきました。

これが、「食べることこそが生命維持の選択」から「食べないことで得られるエネルギーの選択」への食の概念の変化につながります。単純にお伝えすると「実はこんなに食べなくて良かったんだ」と気づきましたということです。

哲学者であるデカルトの一節で、「常識を疑うことで、新しい世界が見えてくる」という言葉があります。

そして、同じく哲学者アダムグラウンドは「新たな視点で見つめ、古い問題から新たな洞察を得ること」という言葉を残しました。これは、当たり前のことを当たり前として捉えずに、これまでとは違う見方で、その本質を見出すことにより真実がわかってくるということです。

断食により、デカルトやアダムグラウンドが言っているように、当たり前のことを当たり前と捉えずに、違う見方で本質を見出すことのその意味が少し垣間見えたのです。

「食べないこと」が悪い、という常識から抜けたのです。

食べる行為が大切なのではなく、食べるマインドを知ることが大切なのだと感じたのです。食べないと体に悪いといった常識は思い込みによるものであり、食べることが健康ということではなく、食べても食べなくてもどちらでも良く、必要以上食べないことの方が健康であるという真実に目が覚めたのです。

食に対する私の経験によって、マインドによる満足感から、感覚による満足感への変化となり、結果、これまでにない幸福感を味わうことになったのです。

そして、このマインドのブロックが外れたことで、開かれた感覚によって、どんどん覚醒へと向かっていったのです。

すると、食の幸せ概念を再構築していくこととなったのです。

食に対して、古来より日本人は全ての物に感謝し、節度を持って頂戴するという意識が高かった様に感じます。仏教においても、禅宗の食事においては、自分の食事の量も自分で決めます。

自分でお断りをしない限り、次々に食事がよそられていく中で、自分で量を制限し、その食事の一部を動物に分け与え、そして、自らがありがたく頂くという作法です。

俗世の人間が、参禅修行に入る場合、初めての方は、お粥を2杯、3杯とお椀いっぱいになるまでを求めてしまう方も多いそうです。

お腹いっぱいになれば、その後の瞑想では、食欲が満たされた結果、睡眠欲に襲われてしまうことは言うまでもないことです。

そういう特別な環境に身を置いてもいざという時には、なかなか自分の欲望を抑えることが難しいということです。

禅宗では作法を含め、食事を大切な修行とすることは、それだけ人間の煩悩から離れることは、困難であると言うことなのだと思います。

そもそも食における幸せの概念とはどの様なものでしょうか。

食事は、自分の体を幸せにする一つの大切な要素ですが、食によってお腹をいっぱいに満たすこと、「食べることそのもの」だと思っている方がほとんどだと思いますが、五感が満たされる幸せ、恵を感じる幸せ、これこそが食の幸せだと思うようになったのです。例えば、ただ高級なものを食べることなどの食自体が幸せの指標なることはありません。

それは、私達にとってはこの体が恵みであり、その恵みである体を、喜び巡らすことが命である魂の恵みだということ。

それは食欲である生理現象による、「お腹を満たす」ことで、命が保たれているのとはまた意味が違い、「体が喜ぶこと、心を満たすこと」は、好きなものをお腹いっぱい食べることではないとうことを知ったのです。

自分の体の声、心の声にきちんと耳を傾け、「体が喜ぶこと、心が満たされること」を選択することです。

体が疲れていたら、ストレス発散で暴飲暴食をするのではなく、その時の体と心に必要な食事を自分に与えてあげること。

頭は脂いっぱいのお肉を求めていても、体はさっぱりしたスープを求めているかもしれません。そして腹八分目で体を労ってあげるのです。

この心掛けが変わっていくことにより、食を通じて、自分にとっての幸せの基準が何かを明確にさせてくれます。

欲望を満たすことが幸せなのではなくて、自分の体を愛おしく思うことこそが、本当の幸せにつながってくるのだと思います。

私のことに戻りますが、このようなことから断食や食を見直すことで、意識がとてもはっきりしていきました。過度な暴飲暴食、糖質や塩分、過度なお酒などは、もちろん私達の脳に炎症を与えマヒさせてしまいます。そうすると24時間フルで体は動き続けていますので、体力が持たないのです。

控えていくことで、普段意識を向けれていない自分の体にも意識が向くようになり、体を休めてあげれるようにもなります。私はそれに気付いていませんでした。休める事なく稼働させて体に酷使をしすぎていた事、使いすぎて体は悲鳴を上げていたのだと。

すると私を一生懸命支えてくれているこの体に感謝が湧きはじめ、いつも守ってくれているこの体に「ありがとう」と言った念が湧いてきたのです。

例え、病気になった体だったとしても、それは悪でも敵でもなんでもなかったことに気付くことができ、自分のこの体に対して、いつもがんばってくれてありがとうと、思えたのです。

すると、今まで嫌だと思っていた体が急に愛おしくなり、コンプレックスだった部分も可愛いと思える私へと意識が変わっていったのです。

この食事に対する考え方が変化したこと、幸せの概念が変化していったことに合わせて、「癌」に侵されていた体もどんどん回復していきました。

担当してくれていた医師は、その回復スピードに驚き、投薬治療も早期に終了となり、予定していた体に負担の大きい治療も受けなくて済むことになりました。今でも 定期検診には行っていますが、体はいたって健康な状態を維持しています。

体に対する認識さえ変わります。

すでにお伝えした通り、食は大きな執着心を植えつけます。それは人間の本能を刺激するものであることから、このバイアスからの脱却は一見すると、とても大変に感じます。

ダイエット、健康など当初の目的はどうであれ、やはり自分の体を大切にするという意識を持っているかどうかが大切になります。

例えばヨガであれば、体の動き、エネルギーなど意識と体を一体にすることにより、自分の体が整えられていき、結果として必要最小限の食事でも体は快適な状態となります。

例えば、自分の体が嫌だから、酷使してダイエットするのではなく、体を大事にするように愛するようになることで、自然とダイエットに繋がり酷使したり無理をしなくて済むようになります。

体を大事にする事が、お腹を満たすことではなく、体を大事にするから、胃に負担をかけないようになるのです。気が付けば体も一番楽な体重に変化していくので、そうすると、どんどんますます自分の体が好きになる。それは好きが好きを加速させているのです。幸せが幸せを呼ぶわけです。

ですので自分の体を大事にすることと、甘やかすという認識が、これまでとは逆なのだと気付きました。

自分の体の声と心の声に耳を傾けること、自分の体を意識し、常に愛おしく体を労うこと。次第に、ますます自分の体が愛おしく感じてくるようになり、するとエネルギーが巡り始め、幸せも巡るうようになってきます。

スピリチュアルな視点では、その幸せのプロセスが、自然なバイオリズムとして、自らの覚醒に導いてくれるのだと思います。

「命が巡り、運が開ける」ということです。

では、ここから能力開花が起きた時の体験をお話ししていきたいと思います。

断食によって、これらのように大きな気づきに繋がり、経緯があったことにより、能力が開花するといった事が起きたのです。この世の真実や本質に気付ける松果体が動き始めたのです。

脳がクリアになり、毒素が体から抜け、感情のデトックスとなり、みるみる「真実とは何か?」に意識が目覚めていったことで、眠りの世界から目覚めの世界へと脳が活性化されていったのです。

それは五感から第六感が動き始めたことを意味していました。

全ての行動一つ一つに、そこに教えがあり、意味があることに気付けるようになったのです。一瞬一瞬、それが何を意味しているのかが理解出来るようになったのです。

カーテンを洗おうと思いカーテンの紐を解こうとした時の話です。カーテンを洗おうと思い、カーテンの紐を解いていた時、解きかけた瞬間に重力によって、スルスルっと紐が解け落ちたのです。それを見た瞬間に「解けることを知ること」なのだということを理解したのです。

どういうことかと言うと、「一生懸命に力づくで解こうとせずとも、ただ解けることを知ること。」それが宇宙の真理であり、それが自分を信頼している状態に在るということなのだと知ったのです。

ここで言う解けるは、そうなることを信頼してやまない状態のことです。

その前提が、自分の自信に繋がることとなり、それが確信に変わり、さらに信頼に繋がっていく。

幸せになろうとするのではなくて、幸せであると言う前提を知ることなのだと。その意識で在れることで現実が現実を作り上げていくと知った瞬間でした。

そこから宇宙の真理が分かるようになり、全ては目の前に広がり教えが常にそこにはあるのだと実感したのです。これが私の断食により能力が開花した実話となります。

いかがでしたでしょうか。
みなさんの命が巡り、運が開けるきっかけになれば幸いです。

【アカデミー説明会を致します!】

2024年1月9期生の受付を開始致します。アカデミーに参加してみたいけど、どんなことをするのかわからないから知りたい!という方や、内容を詳しく聞きたい方はぜひご参加くださいませ。ZOOMにて説明会を開催しておりますので、参加ご希望の方は、【公式LINE】もしくは【お申し込みフォーム】にてご連絡いただいております。

《キーパーソン公式LINEはこちら⇩》
ご登録特典付き!

よろしければサポートよろしくお願いします!✨サポートはみなさんへの活動費に全力で使わせていただきたいと思います。ワクワクする楽しい面白い人生に、みなさんを昇龍観音様に導きをもらいながら、昇り龍のように渦を巻いて巻き込みたいと思います。よろしくお願いします!♾