高橋団吉(DECO)
かつて小学館「ラピタ」で連載した国鉄総裁・十河信二の物語に加筆修正を加え、Web版としてリスタートしました。第一部は2024年夏頃に完結予定。隔週更新していきます。
現場を知らずに鉄道を語るなかれ。 後藤新平は、徹底した現場第一主義者で、新人法学士たちに長期の現場見習いを義務づけた。 ノブの見習い実習地は、信州長野である。 ところが、まるでお客さん扱い。到着早々、現地の上役に連れ回され、善光寺詣でや上杉謙信ゆかりの名所旧跡巡りをさせられる。 鉄道のテの字も、触れさせてくれない。嫌気のさしたノブは、たったの二日間で東京に帰ってしまった。 さっそく後藤新平総裁に怒鳴りつけられる。 「大馬鹿野郎! 規則に反するぞ!」 「私は最高
「鉄道院に来い」 この後藤新平の一言がなければ、十河信二は農商務省の役人になっていたはずである。 後藤は、広軌鉄道建設論者の元祖といっていい。たとえ後々に十河信二が国鉄総裁の椅子に座ったところで、後藤新平を師と仰ぐことがなければ東海道新幹線が実現していたかどうか、大いに疑わしい。 十河信二は帝大卒業に際して、穂積陳重という愛媛出身の独法科教授に、就職の希望についてこのように相談している。 「私のごとき田舎百姓の次男坊が最高学府を卒業できたのは、ひとえに郷里で働く人々
十河信二の眠れる学生時代は、帝大に入ってからも続いた。 帝大時代、十河が勉強らしい勉強をしたのは、民法だけである。安倍や岩波たちが哲学的煩悶と格闘するのを横目に眺めながら、信二は自分の頭をグイと無理やりに法学に向けた。 入学早々、信二は法学部教授の自宅を片っぱしから訪問する。 「法学を勉強するにあたって、最も大事なことは何でありますか」 歴訪して直談判することは、この男の得意技である。教授たちの話を総合すると、最も肝心なのは”法律の頭”を作ることであるらしい。それに
一高の同期生には、錚々たる面々が揃っていた。 のちに俳句界の大御所となった荻原井泉水、「咳をしても一人」という妙句で有名な放浪の俳人尾崎放哉、『銀の匙』を書いた作家の中勘助、岩波書店を創業した岩波茂雄、同盟通信社創業社長の岩永裕吉、政界入りした青木得三、西田郁平、のちに文部大臣を務めた安倍能成、下条康麿、厚生大臣の鶴見祐輔、近鉄社長となる種田虎雄……などなど、のちに政界、官界、実業界で活躍する逸材がゾロゾロいた。医科には斉藤茂吉、工科には朝倉希一の名も見える。 安倍能成
東京は、遠かった。 本州に出るには、まず瀬戸内対岸の尾道まで船に乗る。この頃「住友汽船木津川丸」が新居浜~西条~尾道間を一日一往復していた。当時の時刻表によれば、船は新居浜を朝七時に出港し、西条に七時五十分、四阪島、三庄を経由して十二時五十五分に尾道に着く。 上京のとき、信二は田野屋で一泊し、橋本校長や「パン屋はん」に挨拶をして、西条から船に乗った。 といっても、港らしい港はない。西条の海は、遠浅である。沖合で待つ木津川丸まで艀でいくのだが、その艀も、潮加減によっては
高瀬半哉の墓は、大町の大念寺にある。 西条高校から真っ直ぐ南に下って、旧道こんぴら道と交わるあたり一帯を「大町」というが、予讃線が開通する以前は、この大町が西条きっての繁華街であった。高瀬は賑やかな街道筋の古刹に間借りして、没するまで西中へ通い続けた。 大念寺を訪ねてみた。しゃかしゃかと出てこられたのは、副住職の上原俊雄氏である。聞けば、西中の三十四回卒業生で、パン屋はんの教え子であった。その上原は、スト好きの西中生気質を「よもくり精神」と表現する。 「よもくる」は
西条中学は、中萩村から十キロほど西にある。 信二少年は、歩いて通った。 昔の人は健脚である。大正十年に予讃線が通るまで、新居浜と西条は、徒歩で行き来するのが当たり前であった。自転車はまだ、ごく少ない。西条の町に自転車がチラホラしはじめるのは、信二の西中四年生の頃で、むろん贅沢品であった。この頃、西条―新居浜間に定期馬車が走りはじめたが、運賃が高くて通学には使えなかい。 つまり、街道は交通上もきわめて安全であったので、遠距離通学者たちはこれを勉強時間に使った。信二も袂を
別子鉱山鉄道を作った男を広瀬宰平という。 新居郡一帯の”英雄”と言っていい。宰平なくして住友なし。住友なくして新居浜なし。と、当時から賞賛されていた。 「宰平サンのおかげで豆汽車が通った……」 「宰平サンのおかげで学校ができた……」 中萩の少年たちは、この男の名前をうんざりするほど聞かされて、育ったはずである。 近江の生まれ。十歳のとき叔父に伴われて別子銅山に給仕として入山し、めきめきと頭角を、現し、住友大番頭広瀬家の養子となった。叩き上げの大出世者である。 江戸
地図をひろげてみると、四国は北側の瀬戸内海に向かって、あんぐりと口を開いている。 島々が密集する瀬戸内の海にあって、この一帯だけ、島影がごく少ない。瀬戸内で、もっとも広々とした海である。 燧灘という。 この大きく開いた口の喉元あたりに新居浜(にいはま)の港があり、背後には四国アルプスの山塊が迫っている。 港から別子の山に向かって、ゆるゆるとざっと四、五キロ登ったところに、「中萩」の町名が見える。海抜は五〇メートルくらい。別子山系から滲み出るように拡がった扇状台地の真ん
これは、ある明治男の百戦百敗の物語である。 この男の人生の実働期は、長い。明治の日露戦争の時代から昭和の高度成長期までの長きにわたった。 日露戦争勃発の年に二〇歳。大東亜戦争敗戦のとき六十一歳。鉄道省官吏、帝都復興院局長、満鉄理事、大陸の国策商社社長、そして敗戦のときは愛媛県西条市長……。獄舎につながれ、職を失い、事業に失敗し、戦争にまみれ、友を喪い、数え切れぬほどの挫折を重ねて、結局のところ、この男の夢も、愛する国も、ことごとく敗れ去った。 だが、戦後、不死鳥のよ
WEB連載スタートにあたって 「十河信二」について雑誌連載したのは、もう四半世紀も前のことでした。 ところが、なかなか書籍化することができませんでした。 この間の諸事情を簡単にまとめた文章を引用します。 *** 『春雷特急』(仮タイトル)は、大きく三部構成でした。 第一部=「誕生~鉄道省時代」 第二部=「大陸時代」 第三部=「国鉄総裁時代」 このうち、第三部の国鉄総裁時代だけが書籍化されています。『新幹線を走らせた男 十河信二物語』(二〇一五年 デ