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三宅唱『夜明けのすべて』

三宅唱の長編作品としては8作目。原作は瀬尾まいこの同名小説。あらすじは以下の通り。

月に一度、PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢さんはある日、同僚・山添くんのとある小さな行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。だが、転職してきたばかりだというのに、やる気が無さそうに見えていた山添くんもまたパニック障害を抱えていて、様々なことをあきらめ、生きがいも気力も失っていたのだった。職場の人たちの理解に支えられながら、友達でも恋人でもないけれど、どこか同志のような特別な気持ちが芽生えていく二人。いつしか、自分の症状は改善されなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。

映画『夜明けのすべて』公式サイト(https://yoakenosubete-movie.asmik-ace.co.jp)より

藤沢と山添について

『ケイコ 目を澄ませて』において、ケイコという女性がボクシングを通じて様々な葛藤と“格闘“する様子が描かれたのに対し、『夜明けのすべて』においてはそれぞれPMSとパニック障害という生活上の困難を抱える二人が主人公に据えられた。下に引用したインタビューで述べられている通り、本作で藤沢と山添は常に並列した関係でカメラに捉えられる。

──二人をカメラで捉える際は、どんなことを意識していましたか?

二人を同時に映すこと。それも、なるべく等しい距離から。結果的にそれが一番面白いっていう発見がありました。それはさっき話したように、自分じゃなく相手を見ている、というか、相手を通して自分のことも再発見している二人だからなのかな。彼らの間には、目に見えない何かが生まれています。それをなんと呼べばいいかはわかっていないですけど、それが映っていると思います。目には見えないけど。

『夜明けのすべて』三宅唱監督インタビュー
https://ginzamag.com/categories/interview/439748

例外となるのは、パニック障害の発作が起きた山添を藤沢が自宅まで送り届け、玄関先で自分自身がPMSであることを打ち明ける場面である。この会話が孕む一種の緊張は「ともに持病に苦しむ者同士、分かり合える部分があるはずだ」という立場の藤沢と、「PMSとパニック障害は全くの別物であり、故に二人の抱える苦しみも別種のものである」という山添の立場のすれ違いから生じている。この場面における二人は玄関先において対峙する形をとり、「病気にもランクがあるってことかな、PMSもまだまだだね」という藤沢の言葉とともにその時点では相互理解に至らぬまま玄関のドアが閉じられることとなる。しかしこの場面において山添が藤沢の言葉を受け止め、自身の言葉に対する一抹の後悔を抱いていることは、藤沢からの差し入れが入った袋が玄関先に置かれることによっても表現されている。

二人の間に生じた緊張関係が緩和を迎えるのは、藤沢が山添の自宅を訪れ、散髪の手伝いをする場面からである。ここでの藤沢の“天然“としかいう他ない言動の愛らしさ(ここでの上白石萌音の演技が素晴らしい)とそれが生じさせた笑いは、二人が抱えるそれぞれのシリアスさな問題に対して、解決することは難しいかもしれないが、少なくともそれを分かち合い、気にかけることくらいはできるかもしれない」という、相互理解への希望を感じさせる。ここで重要なのは、二人の関係性の変化が「笑い」を経由していることだと思う。この二人は“苦しみ“の共有ではなく、ただ同じことを面白いと感じ、それについて笑い合ったことによって信頼関係を結ぶこととなる。

本作品の制作は、前作『ケイコ 目を澄ませて』の編集段階において、その話が立ち上がっていたようである。『ユリイカ』誌面に掲載された蓮實重彦との対談(2022年10月)において、三宅は(「君の鳥はうたえる」など、三宅作品のプロデュースを手掛ける)松井宏の『ケイコ 目を澄ませて』評を取り上げ、コメディに対する意欲を滲ませている。

もっと笑えてもよかった、警察官とのやりとりすら笑えた。直後にあの電車が来て笑いが止むが、この映画の舵取りには別の可能性もあったのではないか。監督が違えばあの警察官のような存在をもっと悪者にできるはずなのに、三宅はなぜか愛着をもって撮っている。無理して悪者にする必要もないし、そういう三宅の感覚をもっと生かすためには、たとえシリアスな場面だろうとそれに怯まず、そのシリアスさを超えるためにも、もっと面白がって演出していいんじゃないか。

『ユリイカ 12月号 第54巻 第14号 特集*三宅唱(2022年12月1日発行)』より引用

三宅が紹介したこの松井によるケイコ評は『夜明けのすべて』でかなり効果的な形で生かされたのではないかと推測する。この映画はある種の“病気“について扱いつつも、「そのシリアスさを超える」ことが志向されている。そういった意味で、この散髪の場面というのはこの映画の価値を決定づけるものとなっている。この場面の演出意図については、三宅唱が濱口竜介と三浦哲哉を交え、三者で対談した以下の記事後半に詳しい。この笑いがすでに原作に書き込まれていたこと、そしてそれが予定調和を感じさせない形でごく自然に演じられていることに驚くばかりである。

街とプラネタリウム

物語の後半、山添は藤沢から譲り受けた自転車で、藤沢宅に忘れ物を届けるという場面がある。坂道の多い街(馬込周辺)を山添が時には自転車に乗り、坂道はそれから降りて自分の足でゆっくり歩を進める。状況に合わせた自然な振る舞いを、自分が今いる環境も含めて山添が獲得したという暗喩的表現からは、やはりこの作品の映像的な豊かさを感じさせられる。そして彼がそのような自己を発見できたのは、藤沢のみならず栗田科学という居場所があったからに他ならない。

栗田科学という職場の扱い方は、二人を取り巻く社会の様相を切り取るという意味において、本映画で最も繊細さが要求された側面であろう。PMSによる藤沢の感情爆発に対して、二人を引き離す流れのスムーズさ。後に会話を交わすようになった山添と藤沢に対して世話を焼くでもなく、ただ“気にかけている“という態度。冷たくもなく、だからといって過剰でもない距離感の演出によって、山添がこの職場を自分の居場所にした理由が、言葉による説明を介さずに観客に伝わるようになっている。そしてそうした経緯の全てが、カメラに対して中央に据えられたり、ズームアップ等の演出を用いることなく「ただ、そこにそういう人たちがいる」といった実感を伴わせる形の表現となっていることに「やはりこの監督の映画は品格が伴っている」と思わされるのだ。

三宅作品がもつ最大の魅力は「カメラに映される人物が、そして彼らが抱く感情が、この世界には本当に存在するに違いない」という確信を観客に喚起させる点であると感じる。三宅作品におけるこうした“実在感“は、俳優陣の演技の自然さに、控えめかつ的確な演出、そして同時代性が組み合わさることで創出されている。細かいレベルでは「ケイコ」において、聴覚障害者がコロナ禍におけるマスクを着用した会話に困難を感じる場面を描くこと。「夜明けのすべて」においては自転車に乗る山添が律儀にヘルメットを着用するといった描写が、この人物たちが同じ時代を生きているという実感を補強している。

「夜明けのすべて」はそうした同時代性とともに、それを飛び越えた普遍的な射程を獲得している作品でもある。原作において「栗田金属」であった会社をプラネタリウムを扱う「栗田科学」とした変更し、観客が共に移動式プラネタリウムを経験することで、この宇宙が生まれてからの果てしない時間を想起すること。作中に時折挿入される街の灯りをクライマックスにおける星の瞬きと並び立てることで、宇宙の下で暮らす人々の生活に思いを馳せること。山添と藤沢が経験する世界が拡大し、スクリーンを眼差す我々を包むような力をもった名作である。

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