デレラの読書録:宮内悠介『国歌を作った男』
2016年以降に各所で掲載された短編を集めたノンシリーズ短編集。
現在刊行されている長編の原型となる短編もあり、そういう点でも面白い。
ノンシリーズとは言え、一貫した流れのようなものが感じられる。
言わば、BGMのようなものである。
表題作の「国歌を作った男」は、ゲーム内BGMが国家と呼ばれるまでの物語である。
「夢・を・殺す」でも、ゲーム内BGMが出てくる。
BGMというモチーフが、わたしは印象に残った。
宮内悠介の描くBGMは、独特の雰囲気を持っている。
BGMは、登場人物ではない。
名の通り背景にあるものだろう。
しかし、それは自然にそこにあるものではない。
プログラミングを主題に多くの作品を書いてきた宮内悠介のBGMに関する考え方がそこに現れているのではないか。
どういうことか。
つまり、BGMは登場人物のように前には出てこないが、かと言って作らなければ存在しないものでもあるということだ。
ようは、BGMは自然に存在しない、そこには作家の意図があるのだ、ということ。
その意図に作家性のようなものが宿るのではないか。
これを一歩踏み込んで読んでみる。
小説という媒体は文字だけの「音の存在しない」媒体に思えるかもしれない。
しかし、読んでいるときの目で感じる語感や、リズムはある。
宮内悠介の小説の読みやすさは、このBGM的創造力が関係しているのではないか。
ストーリーライン、感情の流れがスムーズであり、かつ予期した展開が少しズレて提示されるズラしの快感がある。
人間の感情は摩訶不思議なものであるが、配置されたBGMによって読者は感情を読み込むことが出来る。
また、BGMとは全く違う論点として、偽史的創造力もある。
「パニックー一九六五年のSNS」は1965年にすでにTwitter的なSNSが存在したという偽史物語である。
恐竜図鑑を思い出して欲しい。
数千年またはそれ以上の単位でかけ離れた時代に生きた恐竜が同じページに並んでいる。
未来は過去を圧縮する。
ならば未来から顧みれば2000年代にSNSがあったのか、1960年代にSNSがあったのか、というたった数十年の差異は圧縮されてしまうだろう。
そういう感覚で考えると、60年代にSNSがあったとしても、現代と変わらず炎上が起きている筈だ。
ようはSNSは現代に特有なものではなく、人間は昔から変わっていない。
そういうことも考えさせられた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?