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"平成最後の夏"なんて"エモい"に決まってる

平成最後の夏、って誰が言い始めたんだろう。ただでさえ「夏」というエモさMAXのワードに「最後の」というキラーエモワードをつけてしまって、さらに「平成」という皆がなんとなく終わってほしくないエモまでつけてしまった。もうエモがエモすぎてエモーショナルが高まりまくってしまうワードだ。もしこれが「昭和最後の夏」だったらどうなんだろ………あ、これはこれで思ったよりエモいかもしれない。

最近、「エモい」という言葉について、Twitterでなんだかんだと言われたりしているが、私は若者なので、常日頃から「エモい」を使わせてもらっている。語源が「エモーショナル」だろうが「えもいわれぬ」だろうがどうだっていい。だってエモいもんはエモいのだ。我々の瑞々しい感性を邪魔しないでほしい。

言葉は感情を媒介にして、"いい組み合わせ"と"なんか気持ちいい語感"を見つけると、アメーバのように分裂して結合して進化していく。 "ぶっちゃけ「平成最後の夏」はめちゃくちゃにエモい" こんな文章をむかしの人たちが目にしたらどう思うんだろう?まず意味がわからないんだろうな。多分ウチの83歳の婆ちゃんとか絶対無理、理解できない。我々平成の若者が、この文章にこめている感情とか感性とか、全然救い上げられないと思う。いろんなものを取りこぼしまくって、最終的に「今の若者言葉はすごいねぇ」なんて言われる気がする。ウチの婆ちゃんは、こういう新しいものや言葉に説教を施さない最高の老人なんだけど、だからといってこの感覚が伝わらないことには、えもいわれぬ寂しさをおぼえる。まぁ何においても、言葉だけで感情のすべてを伝えることはたいへんむずかしいのだけど。

それでも、「平成最後の夏」というワードのエモさを、なんとかしてウチの婆ちゃんに伝えてみたい。そのために尽くせる言葉はいくらでもあるはずだ、と思う。

私は平成に生まれ平成に育った人間なので、時代の終わりというものをよく知らない。うっすらとある記憶では、20世紀が終わる瞬間、人々はお祭りのように騒いでいて、花火があがったりクラッカーを鳴らしたり「2000」というメガネをかけたり、今でいうハロウィン渋谷の騒ぎだったときく。じゃあアレが「エモい」なのかと聞かれたら、私は違うと答える。あれはエモではない。

どちらかといえば、「エモい」という感情は、「場に集約される瞬間的な感情」ではないように思う。楽しいとか嬉しいとかスゴイとか、そういうパワーにみちあふれる陽の感情とは、違った気質をもっている。だいたいよく観察してみると、「エモい」を使う人の目は焦点があってなくて、今この瞬間ではないどこか遠くの方を眺めている。花火を眺めて「エモい」と言ったら、火のじゅわっという消えかけのに、心の奥の方で儚く散った過去の何かを眺めている。路地裏に入った瞬間の「エモい」は、鼻をかすめる古い空気とさびれた色使いに、遠い幼少の記憶が呼び起こされて心がむずむずしている。卒業する先輩への色紙を「エモい」と感じるのは、ひとりの人間が集団から切り離され、いなくなることを想うからだろう。なんだか具体例がほとんど後ろ向きになってしまったが、そういうことなのだ。

私にとっての「エモい」瞬間は、物事の終わりを想う時だ。とくにそれは直接的な終わりではなく、間接的に終わりを感じた時。

そう、さすがに爺さんが死んだときはエモくなかった、あれは直接的な喪失を伴う「悲しい」という感情だ。でも最近、「爺さんが死んだ」ことに対して「エモさ」を感じた。ナンセンスな大人には、不謹慎だと叩かれるのかもしれない。

降り注ぐセミの鳴き声、逃げ場をなくすように照らしつける夏の光、鼻腔をくすぐる線香の匂い、経をなぞる重低音、踏みしめる砂利の響き、木桶に叩き付けられる水しぶき、揺れる木漏れ日のかげ。書き連ねてみると、先だって体験した「平成最後のお盆」は、おわりの塊だった。どの風景を取っても「おしまい」と「余韻」の宝庫じゃないか。お爺さんが死んだ夏から5年経ち、ようやくこの風景を「エモい」と感じられるようになった。右下に日付が入るタイプのカメラアプリを起動するぐらいには、余裕がでてきた。砂利を踏みしめながら、蚊に食われを気にできるようになった。菊の花をきれいに活けて、線香の香りと混ぜて楽しめるようになった。ホースで墓石の掃除をしながら、反射する水しぶきの中に虹を見つけた。これを「エモい」と言わずして何と言う?

「祖父が死んだこと」が、「終わり」の記憶として、ようやく私の中に定着したのだろう。だから間接的に、「エモさ」として「終わり」を取り出せるようになった。毎年だるいねむいと言いながら、機械的に参加していた墓参りの世界が、エモーショナルに色付き始めた。どれも新鮮な夏の色をしていて、鮮やかに息衝いているのだけど、ぼんやりセピアに褪せた加工がかかっている。正直インスタ映えするかは微妙なところだが、現像写真っぽくネガに残しておくのはアリだと思う。

まぁ相変わらず、墓参りは大嫌いなんだけどね。お気に入りのスニーカーがよごれてしまうし、線香の匂いをさせて都会へいきたくないし、蚊取り線香をたきまくっても最低2か所は食われるし、とにかく暑いし。爺さんのことはぶっちゃけ心の中でいつも想っているし、なんか守護霊みたいな感じで近くにいるっぽいし、わざわざ墓に参らなくたっていいじゃん、とは思ってしまう。

何なら、酒弱いくせに日本酒好きだったアンタみたいに、私も酒弱いくせに日本酒が好きになっている。「エモい日本酒見つけた」って話をするために、飲んだ日本酒は手帳にきちんと残して、一升瓶の写真を撮っている。もちろん、右下に日付が入るタイプのカメラアプリを使っているから、もしかしたらじいちゃんにとっては、見やすくて懐かしいかもしれないね。これを若者は「エモい写真」って表現するんだわ。

なに?じゃあ変な言葉を使わず「懐かしい写真」って言えって?相変わらず、若者言葉に厳しいジィさんだなぁ。私にとっては、右下に日付が入る写真、あんまり懐かしくないんだよね、だってデジカメ世代だし。ひとつだけ言えるとしたら、この撮り方が「エモい」ってことだけは、私たち世代にもよくわかるんだ。平成という言葉がおしまいを迎えるのだから、今のうちに撮っておいて、後世に「エモ」を残していかないと。

写真の右下は「西暦」だって?細かいことはきにすんなよ、早死にするんだから。

201808

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