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ダイイング・メッセージ(#シロクマ文芸部「読む時間」)

「読む時間に全神経を集中しろ」
 それがT大学病院法医学研究室の磯崎進教授の口癖だった。
「ご遺体が自らの身体をもって訴えていることを読み取る。我われができることは、それだけだ」
 この春、助教から講師に昇格した本山洸平など教授からすれば、まだ卵の殻をかぶったひよこにしか見えないのだろう。
「いいか。病気やケガによる手術ならば、患者の命を救うために全力を尽くす。だが、すでに死亡しているご遺体にメスを入れて、なぜわざわざ傷つけるのか。そこをよく考えろ」
「どんな些細な痕跡も見逃すな。命の火が消える瞬間に何があったのか。必ず遺体に刻まれているはずだ。それを読め」
 本山が作成した死体検案書を突き返す。
 教授の観察眼から導かれる読解力は卓越し、警察からは全幅の信頼が置かれている。
「いいか。ダイイング・メッセージは被害者が自らの血で書き残すなんてのは、ドラマや小説の世界だ。ご遺体にこそダイイング・メッセージが残されている。それを読み取れ」
 犯人を捜すのは警察の仕事だ。法医学医は、遺体の最期のメッセージを読むのが責務なのだと。執拗なくらい繰り返していた。
 日本の司法解剖率は世界的にみておそまつすぎる。スウェーデンでは異常死の9割が、イギリスでは半数が解剖されているというのに、日本では1割にすぎない。教授はそのことを常に嘆いている。事件性が低い場合に行われる行政解剖にしても、行政解剖を行う監察医制度があるのは東京23区と大阪市、神戸市だけだ。監察医制度のある地域では死因不明遺体の20%が解剖されるが、その他の地域では「たったの7%なんだぞ」と酒も入っていないのに声を荒げるのだった。
 だから、せめて我われに託された遺体のダイイング・メッセージはきちんと読み取らねばならぬ、と。
 
 静かな義憤が積もった教授の声が鼓膜の奥でこだまする。
 今、本山の目の前に全裸で横たわっているご遺体は、一週間前に行方不明になり、昨日、荒川河川敷で溺死体で発見された磯崎進教授だ。
「黙祷。よし、はじめるぞ」
 メスを喉もとに当てる。
「読む時間に全神経を集中しろ。教授の最期の言葉を読み逃すな。涙はその後にとっておけ」
 本山のメスの切っ先は、まっすぐに正中線を走った。

<了>

【参考記事】
<「病死」扱いの無念、犯罪被害者は2度殺される 死因究明に不可欠な解剖が軽視される日本>https://toyokeizai.net/articles/-/217186?page=3

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