抜粋小説 『017・017』

(※)長編小説からの抜粋のような気分で読めたらいいなと思って書いています。でも、この前後の物語は存在しません。


紙切れをコートのポケットに戻すと、コーディ・エヴァンズは控えめに笑みを作った。
「問題ない。酒は飲めないが、コーヒー1杯分くらいなら付き合おう」と彼は言った。
 このとき私は、彼が今見ていたのが劇場のチケットだと気付いていた。開演時間は遅くても1時間後だろう。今から向かえば丁度いい頃合いだ。彼らしい人の良さだと思った。
 すぐ近くの、橙色のランプの灯りを木壁のニスが反射しているだけの薄暗い店に入った。コーヒーがテーブルに置かれてすぐに、私は要件を切り出した。
「訳あって、今日中に発たなくちゃならなくなった。だから、これで最後だ。これまで本当に世話になった」
「今日中って、あと5時間もないじゃないか」と彼は言った。
「荷物はまとめてあるんだ。切符も。本当にこれでお別れだ。ありがとう。それを言いたかった」
 彼は腕時計から目を離して顔を上げた。私は握っていたキーを彼の前に出した。
「ロッカーに、これまで君から受け取った金が全て入ってる」と一語一語はっきりと聞こえるように意識しながら、私は言った。
「やっぱり使っていなかったんだな」彼は苦々しい表情を隠さなかった。「どこまでも面倒なやつだ」
 コーディの両手の指が解かれる様子がないのを見て、私はテーブルに置かれた彼の拳の前にキーを置いた。数秒の迷いの後、キーは彼の手の中に収まった。
「俺からは1ドルだって受け取りたくないってわけか」
「本来、君にこんな義務はないんだよ。とは言え、金は使わなかったが、君から受け取っていたことで随分と気が楽になったことも事実だ。感謝している」
「切符代くらいは、俺の金から出したんだろうな」と彼が言った。私が何も言わないのを見て、乾いた声で短く笑った。彼は落胆したように見えた。
「向こうで仕事を見つけるんだな」
「ああ」私は答えた。
「本当に金には困らないのか」
 彼はキーを指で摘むように持ち、軽く揺らして見せた。
「ありがとう、コーディ。でも大丈夫。あてがあるんだ」
 短く溜息を吐き、コートに両手を突っ込んで彼は立ち上がった。
「分かった。悪いが、もう行くよ。随分とあっけない最後だな」
 私も立ち上がり、右手を差し出して握手を求めた。彼も右手を出して、私の手を握った。すぐに解かれた私の手の中に、ロッカーのキーが残った。
「その金は持っていけよ。お前が残した金を回収しに行くなんて、気分が悪いから。俺とお前の間で起こったことは、そんな後ろめたい取引みたいなものではないはずだ」と彼は言って、そのまま店の出口へ歩き出した。
 私たちはそれから何も言わず、店の前で別れた。彼は急ぐでもなく、劇場の方へ歩いていった。
 列車の時間に間に合うように、私は荷物を取りに帰った。コーディへの貸しのままになってしまった金をロッカーに取りに行っても、まだ少し時間の余裕はある。
 私は3日ぶりに事務所に入った。玄関口にスーツケースを置いて、自分のデスクの引き出しから列車の切符を取り出した。片道切符をコートのポケットに入れて、代わりにキーを取り出す。ロッカーへと近付いた。
 発車時間まであと15分。事務所の入口の鍵は郵便受けに入れて行くのを忘れないようにしよう。
 ロッカーはいくつも並んでいて、順に番号が付いている。確か奥の方だった。電気を付けていないから暗くて、いつもより奥まっているように感じる。
 札の番号を確認して、私はロッカーの鍵穴にキーを挿して回した。 
 開けると、そこには金は無かった。
 ロッカーの中にキーを置いて、扉を閉めた。同じ番号の扉が2つ並んでいた。私はひとり、声を上げて笑ってから、駅へと向かった。


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