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ふくれ上がる期待とその周辺

もしかすると、自分はひどい目にばかり遭ってると(主観的に)思ってる人の方が様々な事柄に対する期待(値)がふくれ上がりやすいのかもしれない。

この期待というのは、自分が総理大臣になるだろうとか、はたまた大成功を収めるだろうとか、時代の寵児になるだろうとかそんな大それたものではなく、もっと小さなものです。

たとえば、いつもそこを通るとき自分を吠え立てるあの犬がせめて今日だけでも寝ていてくれたらとか、ATMに人があまり並んでいなければなぁとか、駅に高校生いちゃつきバカップルがいなければとか、店に勤めてる人であれば変な、あるいは面倒な客がこなければいいなぁといったもっと日常的な小さな期待です。

こういった小さな期待はもしかすると学校でいじめに遭ったことがあるみたいな人の方が膨れ上がりやすいのかもしれない(わたしもまぁ、そのくちでしたが)
学校みたいな空間でいじめに遭ってる人は、どうしても学校に行くと(そもそも行けない場合も多いですが)「せめて今日だけでもいじめっ子たちが自分に干渉してきませんように」「登校したら学校がなくなってればいいなぁ」「転校したいなぁ」とか期待が膨れ上がるもんですが、そのほとんどはほぼ毎日裏切られます。

プロ野球選手になりたいとか、世界的なミュージシャンになりたいとか、ビジネスで大成功したいとか、はたまた初恋ですとかは、成就の見込みがあまりに小さくなればたいていは萎むものです(例外はあるでしょうが)
大きな期待というのは個人差はあるでしょうが年とともに萎んでいくものです。
しかし、その萎んでしまった大きな期待の代わりに小さな期待というのは年とともに萎むことは稀なのです。
というより大きな期待を自分の分を知って諦めた分、小さな期待はかえって諦めにくいことも多いのです。

郵便局の窓口とかで腹を立てている人はどちらかといえば年輩の方が多いかもしれません。
人生に大きな期待はあまり持たなくなった分小さな期待は手放せないものなのかもしれません。

また、小さな期待は何度裏切られても容易になくならないんです。

問題は期待が膨らんでしまうことです。

期待が膨らんでるときは気分が高揚します。

それは高校生のころの恋に似ています(部活に燃えてたとか、受験一本槍だったとか、女子高で、あるいは男子校で恋なんかなっかたという人もいるでしょうが)

期待はそれが膨らんでる瞬間は素晴らしいものかもしれません。

しかし人間の期待は大きなものであれ小さなものであれ半分以上裏切られるものなんじゃないでしょうか。

そうすると学校でいじめに遭ってたというようなパーソナリティーのほうが小さな期待にしがみついて、かつそれが裏切られる、裏切られるから悪循環的に小さな期待にしがみついてはまた裏切られるというメカニズムが固着しやすいのかもしれません。

小さな期待が裏切られてばかりの人は逆説的に小さな期待にばかり気持ちのピントが合ってしまうのです。

じゃあ小さな期待はよくないなら大きな期待を持とうというわけでもありません。

期待という期待が半分以上裏切られるのが常ならば、期待に胸が膨らんでしまうのが厄介なのです(ただ、膨らんだ期待をそれを成就させるための行動に素早く移せる場合はまた別かもしれませんが)

それは少なくともニュートラルではありません。

もちろん期待に胸が膨らむのは、先ほどはなした高校生のころの恋じゃありませんが、それ自体の高揚感は素晴らしいものかもしれません。

でも、どちらかといえば失望に終わることの方が多いでしょう(特にそれを成就させるための然るべき行動を起こせないならば特に)

沢山出てくる、人生の各々の局面で出てくる小さな期待にしがみついてる状態は、先ほどのいじめのはなしではありませんが人生の主導権を圧倒的に他者が握ってる状態です。学生ですと(とくに小・中学生ですと)学校に行く行かないの2択くらいしか選択がないためかなり絶望的ですが、いずれにせよ期待にしがみつく状態は自分の方に主導権がほとんどない状態です。
もちろんたとえばストーカーに狙われてるとしたら、「ストーカーに狙われるのから解放される状況」という期待にしがみついてしまうでしょう。
深刻な苦境に立たされてる人が特定の期待にしがみついてしまうのは仕方のないことです。
しかし、そこまで深刻な苦境に立たされてるわけじゃないというんでしたら、無数に近くある小さな期待にしがみつかないニュートラルを指向するのもよいかもしれません(いかなる時でもすぐニュートラルに立ち返る便利な方法というのはわかりませんし、そんなものはない気もしますが)
noteとかで一日にあまりに多くの回数ダッシュボードを確認してしまうのも、まわりの世界に期待過剰になっている証拠です。
そうすると主導権を握るのはあなたではなくまわりの世界になってしまいます。
その欠点はあなたが本来やらなければならないことから注力が奪われてしまうことです。
膨らんだ期待は自分の思う通りに成就すればこれは素晴らしいものですが、
そうでないことが多いんであれば、気持ちを落ち着けて、自分が本来やるべきことに立ち返るのがよいと思います。
少なくとも、小さな期待を沢山持って、沢山裏切られて動揺している時間の方が長いというんでしたら、それはニュートラルではないと思います。
(もちろんニュートラルなんかではないからこそできる偉業というのもいっぱいあるでしょうが)


(あとがき)じつはこれでもちゃんとしたものを書かなきゃってプレッシャーがある程度あって、それも投稿感覚が長い一因かなって気もしてて、なので今回はサクッと考えたことをサクッと出すみたいにしようと思いました。
小さな期待を無数に持って、しょっ中それが裏切られ動揺しまくってる哀れなわたしの期待ということにたいする考察でした。

御一読ありがとうございました。

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