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1972年2月の2つの日の丸

ちょうど半世紀前の2月6日、札幌オリンピックで日本ジャンプ陣が70m級(現ノーマルヒル)の表彰台を独占した。「日の丸飛行隊」の誕生だ。笠谷・金野・青地という三選手の名前が日本中を駆けめぐり、始まってまだ数日のアジア初の冬季五輪をいやが上にも盛り上げた。フィギュアスケートではジャネット・リンというアイドルも生まれ、トワ・エ・モワが歌う「虹と雪のバラード」は、小学校の卒業を間近に控えた子どもの胸にもその美しいハーモニーを心の奥に響かせた。思えばそんな国家的イベントを無邪気に礼賛できたのも、札幌五輪が最後だった。

札幌オリンピックの開会式前日、2月2日にグアム島から横井庄一さんが帰還した。日の丸を背負って潜伏し28年間に及ぶジャングルでの生活を終え、記者会見での「恥ずかしながら帰って参りました」が流行語になった。「ビルマの竪琴」位は知っていても、新たに姿を現した戦争のリアルの一断面に少なからず子どもなりの戦慄はあった。しかし高度経済成長末期、世間の目はほとんどが好奇の目で、子供たち(即ち自分たち)は「よっこいしょういち」などとギャグのネタにして遊んでいたのが関の山だ。戦地で精神を病み社会復帰できなくなった「未復員」と呼ばれる人が多くいることなど、まだ知る由もなかった。

自分にとって「日の丸」というのは何なのか、未だもってわからない。60年代までは多くの家で祝日には国旗を掲げていた。「レフティ」だったと思われる我が家も、しっかりと玄関に掲げていた。白地に赤のシンプルなデザインも、事程左様に50年前と今とではその持つ意味は全く違う。これからも変わるだろう。ポリティカルな側面ばかりあげつらうのではなく、世間と「日の丸」、あるいは自分と「日の丸」の関係を問うてみるのも、決して無意味ではないのだ。


見出しのイラストは「にゃむ@Image Creation LABO+FFBE幻影戦争」さんの作品をお借りしました。

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