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直感と事実はしばしば反する──見た目を変えた話

冬の寒さを最も強く実感するところはどこだろうか?
人其々であると思うが、私は風呂上りの脱衣所で最も強く冬を感じる。
湯舟に肩まで浸かって浴槽から身体を出した瞬間に凍てつくような寒気が、鋭く・硬い空気が、曲率半径の小さな針で毛穴のひとつひとつを貫通するように刺してくる。

温度は気体分子の衝突速度によって決まる。温度が高ければ高いほど分子の運動は速くなるが、これは私の実感とは反する。冬の寒気の方が高速で暴れる分子が肌を刺すような感じがするし、春のうららかな空気の方がゆっくりとその場を漂う分子が身体全体を包んでくれているような感じがする。「科学とは直感に反することを数式で受け入れる訓練だ」ということはよくいわれるが、私は冬の空気にそれを感じる。

このように世の中の諸現象は自分の感じているとおりではないことがある。むしろ、感じたとおりであることの方が少ないかもしれない。正確にモノを捉えるためには、自分の「感覚」をもう少し疑ってみることが必要に思う。

正確にモノを捉える、というのは自分の認識を客観に近づけるということを意味する。自己認識と客観的事実を近づけることはときに不愉快であるので、「正確に捉えること」が本当に善いことなのか、には疑問符が付かざるを得ないが、自分のことを客観的に捉えて、客観像と自己イメージを擦り合わせて、できるだけ自他ともに快適な地点に着地させるということが大人になるにつれて社会から求められるようになってくる。

容姿は、その最たるものではないか。卑近な例で申し訳ないが、私は「年齢に対して見た目が幼い」といわれることが多い。そのことについて、やれ見た目が幼いやつは年齢相応のまともな社会経験を積んでいないからだの、やれ苦労が足りないからだの、やれ精神年齢が幼いからだの、いわれて私自身随分と不快な思いをしてきた。見た目が幼いこと(第一、そんなに幼くないし!)と人生経験のなにが関係あるんだよ、クソが!お前たちが何か理由をつけて他人を見下して気持ちよくなりたいだけだろ!(他人を使って自慰行為する人種が私は大嫌いだ)と思ってきた。なんなら、今もそう思っている。

だけど、世の中の一般に普及する価値観というのは、そう簡単には変わらない。つまり、私の見た目が年齢に比して幼いということは(私の直感からズレていたとしても)第三者から見た客観的事実であるし、それに対して否定的な評価が下るというのも動かしがたい価値基準である。まずもって、ガキ臭い見た目というのは舐められる。社会からまともな大人として扱ってもらえない。印象点がマイナスからのスタートなので、「自分はきっちり取り合うだけの価値のある大人ですよ」ということを示さなければならないという、見た目が「まともな大人」である人には必要のないコミュニケーションのコスト(無駄な労力)が発生する。

だから、私は(私の見た目が年齢に比して幼いという)私の直感とは反する現象を受け入れて、自分の認識を客観に近づけ(つまり、正確にモノを捉え)、自分に対する客観像と自己イメージを自他ともに快適な地点に着地させることを試みた。

結果、見た目を変えた。

具体的には、近所の床屋さんに行って、「自分ももういい歳なので、他人から幼いと思われたくないです。大人っぽい見た目にしてください」とお願いした。床屋に行くにあたって、「大人っぽい見た目」とは何なのか、よくわからなかったので、X(Twitter)やGoogleで調べた。そうすると、デコを出すことがどうやら重要らしい。私は今までデコを出した髪型は自分には似合わないと思って敬遠してきた。しかし、これはどうやら間違った「直感」であるらしい。世の中の人間はデコを出している人を「大人」と認識するらしい。

「デコを出す」にも、いろんなデコの出し方があるようで、前髪を横に流したり、七三分けにしたり、アップバングにしたり、オールバックにしたり等々。周囲の「大人」にも意見を求めた。聞くと、やはり私はデコを出した方が良いらしい。結局、どのデコの出し方が私に似合うのかわからなかったので、私の中でこの人は立派な大人に見えるな、、という人物の写真を(自分の直感が外れている可能性があるので一枚ではなく)いくつか持って床屋に向かった。

床屋でそれらの写真を見せ、「とりあえず、大人っぽい髪型にしたいのですが、この中のどれなら自分に似合っていて、かつ周りの人間が『大人』だと認識してくれますでしょうか?」と尋ねた。最終的に私の髪型はオールバックになった。

床屋で綺麗に刈った「大人の髪」を維持するために、整髪剤も試行錯誤した。弟にどんなワックスを使っているのかを訊き、それを参考にひとつのワックスを買った。いまはそのワックスを使って、歳を経てボリュームがやや減った細毛チリチリの前髪を半ばムリヤリ後ろに撫で付けてオールバックにしている。

見た目が改善(?)されたのか、周囲の態度も少し変わったような気がする。どこかお店に入ってみる。以前なら家族や友人と一緒に歩いていても、店員は私には目もくれず、同行者の目だけを見て話す。まるで、私などそこにいないかのように(私もカネ払ってんだぞ!)。ついこの間も、親が入院していたので見舞いに行ったところに、入室してきた看護師に無視されたりしていたが、最近ではそのようなことは少なくなったように感じる。

以前、ある人のブログを読んでいて、「自分の日記を読み返していて、ずっと冴えない人生だったのに、ある時期から幸福度が一気に上がっていることに気づいた。よくよく考えると、自分の見た目が(良い方向に)変わった時期と一致していた」と書いてあったのを思い出した。見た目の向上(自己イメージを理想的客観像に近づける行為)とそれに伴う社会的評価の上昇(両者の一致による快適な着地)が、幸福度を上げてしまったのだ。

科学は直感が現実と反していることを数式で受け入れる訓練。
我々の日常で起こる現象への対応も直感が現実と反していることを受け入れる(その過程では不愉快なことも多々あるが)訓練。
己の直感を現実に近づけていくことで最終的に幸福度の上昇につながることは多い。つまり、科学を学ぶことは、己の直感に疑問を抱く訓練/メタ視の訓練でもあり、この訓練を積んだ先に直感と現実を近づける筋肉モリモリの自分がいて、ひょっとすると豊かな人生につながっているというのは、いささか飛躍であろうか。(いや、飛躍だな)

了.

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