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37年の上映禁止を経て放たれた映画"アングスト/不安"が放つ狂気の正体

※映画のネタバレがあります。また一個人の感想であり、殺人を肯定・推奨している文章ではない事を理解した上でお読みください。
また、サムネイルの画像は公式アカウント様(@angst2020jp)よりお借りしました。問題がある場合は取り下げます。


本物の"異常"が今、放たれる。後悔してももう遅い。


不安をあおるキャッチコピー・主人公である殺人鬼Kが叫ぶインパクト抜群のポスター・そして37年間封印されてきたという年月からにじみ出る内容の重さ。

オーストリアで実際に起きた殺人事件をモチーフにした映画"アングスト/不安"が2020年7月3日から全国で随時"解禁"されている。

初期は首都圏のミニシアターのみでの公開だった。
コロナ渦で映画館の席が半分に制限される中で連日満席という異例の大ヒットを飛ばす。
続々と公開館は広がり、最盛期には38都道府県のシアターで公開。全国に"不安"が広がる盛況っぷりを見せている。

また、公開と同時に主人公Kがダイナーに立ち寄りフランクフルトをほおばるシーンからインスピレーションを得たメニュー"不安クフルト"の販売や
朝8時からアングストを公開する"モーニングスト"などユニークな企画も多々行われた。

新宿にある映画館シネマート新宿が考案した"不安クフルト"は最終的に500本を売り上げたという。
このメニューは上映が終了した後も池袋のシネマ・ロサとのタイアップなど随時公開する映画館に引き継がれている(現在は公開中のアップリンク吉祥寺・渋谷で食べられる。)

公開当時の大盛況を公式アカウントが振り替える様子

ポスターやTシャツの販売も行われた

人間が人間を殺すという事


人間が人間を、殺す。
それはどういう過程を経て行われるのだろうか?

自分は映画ライターさんのようにたくさん映画を観てきたわけではない。
あくまで自身が観た映画の記憶をたどり殺人という手法や演出を振り返ってみると、殺すという事自体が魔法めいていたように思う。

人間が殺され、その後場面は暗転。その後別の物語が挟まれる。
殺された"人間"がその後どうやって移動させられたのか、全くわからない。
その後、死体は主人公のきらびやかに飾り付けられたり、食されたり、殺人鬼の登場シーンで異常性を引き立たせる大道具として使われる。

映画のテーマによってそれぞれ違う"狂気"のヴェールをまとわせられて。

人間が人間を、殺す。
殺し方は描写する。しかしその後どうやって場所を移動させたのか、その場の現場の後片付けはどうなったのか、死体をどうやって処分したのか?その経過が順を追って客観的に語られることは少ない。
死体になった人間の時間軸をあいまいにする演出こそが、殺人という行為を「自分には到底できない魔法のようなもの」と観客たちに無意識に思わせていたのではないだろうか?

「殺人」という行為で一線を踏み越えたものは"人間"ではなく別の生き物である…例えば"怪物"という事をことさらに印象付けていたのではないだろうか。まるでそれは、料理に添えられ味を引き立たせる一抹のスパイスのように。


アングストを"観て"しまった今としては、そう思わざるを得ない。

魔法も特権もない人間が行う、等身大の殺人

アングストで映されているのは、人間が人間を殺すという行為"殺人"のほぼ全てだ。
初めて目にする知らない街を歩き回り、下見をする。
この際に革靴で歩く音が執拗に音響として付きまとってくるが、これが主人公Kが人間であるという事を際立たせているのだ。自分たちと同じ。歩き、息をし、人間である事を序盤に聴覚から印象付けられる。

そしてKは足が棒になるくらいに歩き回った後、郊外の一軒家に目を付けガラスを割って忍び込む。頭の中には完璧な"殺人計画"を思い浮かべながら。

ここから描写されるのは、人間1人を殺す事に恐ろしいほどの体力と手間がかかるという事実である。
老女であっても逃げまどい、力いっぱい抵抗するのだ。殺すには押さえつけ、拘束し、自由を奪わなければならない。
逃げられまいとKは必死の形相で力いっぱい押さえつけ、顔に玉の汗がにじむ。それを繰り返すうちに全力疾走で短距離を走った後のように全身が汗だくになっていく。
力が弱いとされる老人にもこれだけの体力を奪われるのだ。これが若く元気な人間だったらどれほどだろう。

しかし手間を惜しまず、失敗するかもしれないというリスクを負いながらKは人間を殺すことに精を出し続ける。

息子をぜいぜいと息を切らしながら浴室まで運び、浴室に水を貼り、沈める。暴れる息子を抑える事に相当な体力を使ったのか、壁に手を付く。
帰ってきた女子大生の娘を必死に拘束し、逃げようとする娘とKはよろめきながらも必死の攻防を繰り広げる。

何の魔法の力も持たず権力も持たない、自分の周りに居てもおかしくない等身大の人間。
人を殺したい。ただただ人を殺したい!
その欲求を満たすため全身全霊奮闘する姿が、淡々と生活か労働の一部のように描写されていく。
最終的にKは、家一軒に住む家族全員を手にかけた。

今まであいまいだった"殺人"の中途過程


殺人が終わると、後片付けが始まる。
まるでそれは皿に盛られた豪勢な食事を味わい尽くし、食べ終わった食器を下げる行為のように、一種の流れにのっとって自然に行われる。殺人を犯した主人公、Kの場合もそうだった。

死体を家から運び出す事を思いつくが、3人を別の場所で殺しているので、運び出すにはそれぞれを1か所に集める必要があった。
一人になった広い家の中を、Kは死体を集めるために奔走する。
死体は重く、全身の力を込めて持ち上げる。その力が尽きても諦めず精一杯引きずっていく。
引きずる間にはドアに引っ掛けたり階段をずり落ちたりと、様々な困難がKに襲い掛かる。

そして移動させるには車が必要だが、Kはここまで徒歩で来たので車など所持していない。
車はどこにある?まず車を探す。見つけた。
車を移動させたい。この車のキーはどこだ?

動かせるようになると、死体を集めている場所まで運転してゆく。
車を止め、トランクを開け、死体を入るように場所を調整しながら積み込んでいく。そこに犬が乗ってくる。人は殺すが、犬とは相乗り。

車を出すためにドアを開けに行く。戻る。車に乗る。
ここまでの過程を経て車は発信し、凄惨な殺人の現場となった家を後にするのだ。

ああ、何と膨大な時間!!殺人よりも後片付けと準備の方が3倍以上長い!!
そしてこれを全て一人でやり遂げてみせた、Kの歪んだ愛情にも似た殺人への執着。
ここまでの時間と手間をかけても、Kの人生に殺人は欠かせないのだ。
殺人を今終えたばかりだというのに、ダイナーで次の殺人計画を練るKを当時の自分は半ば呆れながら、ただただ見つめる事しか出来なかった。

アングストという映画が孕む狂気の正体


この映画は、淡々と流れていく。
善悪を全く提示しないまま、実際に行われた事件を元にした"事実"としての殺人を、ただただ観客に見せつける。
下ごしらえ(計画の立案)・準備(下見&ターゲットの選出)・メイン(殺人)・そして終わり(後片付け)。
この一連の流れは、まさか、まるで、人間が生活する中でのワンシーンのようにも思えてきてしまう。

自分たちが手間暇かけて"料理"をする事と、殺人を犯す事。手間暇をかけるそこに違いはないのではないか?
殺人は人間が人間に対して行う、作業の工程の1つに過ぎない。
そう"思ってしまう"。頭ごなしに否定しても、そう思わされる。
観終わった後に観客が抱えるそれぞれの"殺人"と"生活"の境界があいまいになる瞬間…疑問を持つ事そのものが、アングストが37年間蓄積・濃縮してきた"狂気"の正体なのではないか。

この映画は後悔してももう"遅い"のだ。この疑問は一生頭から離れない。

#映画 #アングスト #映画レビュー #映画感想


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