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利根川下流・2024年新春ミニサイクリング旅(一泊二日)

 関東地方を流れる主要な川といえば、利根川、荒川とその支流ともいえる隅田川、江戸川、多摩川であろう。このうち、荒川は、私が暮らす地域から近く、日々のトレーニングや運動のために走っている川である。何年か前には、河口から熊谷までロードバイクで走ったことがある。河口付近は自転車で走るようなルート整備ができていない江戸川も、河口から野田まで走ったことがある。多摩川は、さらに身近な川で、何年か前にフルマラソンを走っているが、狭い土手の上は、いつも歩いたり走ったりする人々でいっぱいで、ロードバイクで走る人の姿ををみるたびに怖くなる。
 関東最大の河川であり、日本三大河川の一つである利根川(流域面積日本一、長さ日本二位)は、近年、走りたい川、走らんとあかん川の第一候補だった。昨年9月以降、次々に難儀が降りかかり、予定していたサイクリング旅どころか、体を思い切り動かす活動がかなり制限されてしまったのであるが、復活、挽回の年にしたい年初に、リハビリも含めて利根川下流の一泊二日サイクリング旅を計画し実施した。沖縄のサイクリング旅も一緒にした、大事な相棒が今回も一緒だった。二日間で120km程度の川に沿って下るコースなので、体力的には余裕があるサイクリングだ。

 サイクリング旅は、いつも、訪れる土地の歴史・文化・自然を知ること、感じることが、大切な目的である。今回は、一泊を設定した千葉県佐原(さわら)と銚子が主要な土地となる。この二つの土地について記してみたい。

1。佐原

 佐原は、利根川の水運を利用して栄えた商業の街。利根川に注ぐ小野川の両岸が荷揚げ地となり、商家が並んだ町並みができたようだ。この運河沿いの街並みはよく保存されていて、一見の価値がある。実際、観光地として国内外からの観光客を惹きつけているようだ。

*利根川は、もともと東京湾に注いでいた川で、家康の代から、洪水、反乱に悩まされていた。家康は、この川の流れを東に変えて、香取海と呼ばれていた霞ヶ浦の南に広がる湿地帯へ流す工事に着手した(茨城県古河市と埼玉県久喜市栗橋の境にあたる赤堀川の掘削)。もとの利根川は、概ね今の江戸川として残った。難工事だったらしく、三代家光の代にやっと完成。これにより、佐原の地は、北の太平洋岸地域から運ばれてくる物資を陸上げする交易の中継地として栄えるようになる。佐原からは、この利根川を大きく遡ってもとの利根川に入り、江戸に物資を輸送できるようになり、地の利を得た。第11代将軍徳川家斉(いえなり)の代に、さらに赤堀川の幅が拡張され、利根川は、本格的に太平洋に注ぐ川となった。明治時代になると、鉄道が敷かれ(成田線に続いて常磐線が我孫子まで開通)、佐原は上野と鉄道でつながり、交易の拠点としての地位を維持した。しかし、その後、大型船が東京湾に入るようになり、さらに道路の整備で陸運が発達すると、交易の拠点としての佐原の地位は低下していった。(以上、各種ネット情報源から整理した)

 佐原を有名にしたもう一つの歴史的出来事は、この地が、日本史の教科書に必ず出てくる、日本人なら誰でも知っている伊能忠敬を生み出した地であることである。運河沿いに生家が残されており、反対側には記念館が建てられている。伊能忠敬の業績はよく知られているが、その生まれ育ちや、人となりなどは、初めて目にし、耳にする内容だった。九十九里浜の村の出生だが、縁戚に当たる佐原の酒・醤油醸造家伊能家へ17歳で婿養子に入った。立派な人格者・努力家であり、信念の人であった。55歳から73歳で亡くなる直前まで18年間、全国各地を旅して測量を続け、驚くほど正確な日本地図を作成した。その偉業の達成を支えたのは、40代の時から、費用を惜しまず江戸などから取り寄せた書物から独学で得た広い知識と見識、そして、学問への好奇心であった。さらに、本業の酒造に加えて、米取引などの商売で、婿養子に入った佐原の商家を立て直し、50歳すぎに家督を息子に譲る潔さであった。自らの努力と才覚で儲けた富を、天文観測や、測量用の機材の購入や、測量の旅の費用にも当てた。一方で、天明の大飢饉の時は、困窮した農民を救う手立てに私財を投じたり、幕府が佐原の地に課した税を、忠敬含め二人で全額を支払うことを幕府に申し出て、この地の人々に感謝されたという。

 忠敬は、56歳の時の第一次測量から、72歳の時の第十次測量まで実現し、歩いた距離はなんと3万5千キロメートル。地球一周に近い。まさに「シニアの神様」だ。とりわけ驚かされるのは、佐渡島、隠岐島、壱岐島、対馬、瀬戸内海の島々はもとより、平戸、佐世保の島々、五島列島、さらには八丈島まで実測しているという驚異的な執念だ。

忠敬の旧居にある像と碑

 この伊能忠敬が作成した日本地図(複製)を目の前にすると、その美しさは、筆舌に尽くし難いものがあった。筆でびっしり書き込まれた、虫眼鏡で見ないと読めないような数百の地名には、一度も書き間違え、書き直しがないという。

 江戸では19歳も年下の天文学者の教えを請うた。一方、弟子の一人に間宮林蔵がいる。忠敬が実現できなかった蝦夷地(北海道)、さらに樺太も測量し、その業績を忠敬の存命中に報告したいという強い熱意があり、実現したという。

 忠敬が家訓として後継の息子に示した三訓も、心に染みる内容だ。

   1)正直であれ

   2)身分の上下に関わらず、優れた意見は取り入れるべし

   3)争うべからず 

 伊能忠敬の墓のレプリカが展示されていたが、実物は、江戸、今の東京に弟子たちの手で作られて、その比類なき業績や優れた人となりが、墓石にびっしり刻まれていることを知った。調べてみると、なんと私が暮らす地域からさほど遠くない東上野にあった。ぜひ訪れなくてはと思う。

 強い興味を惹かれた、面白いエピソード(Wikipediaから)をいくつか紹介する(下線は筆者):

1)・・・この事件(河岸一件)で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である伊能景利がまとめあげたものだった。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた

2)・・・天明7年(1787年)5月、江戸で天明の打ちこわしが起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。このとき、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれると主張した。

3)・・・「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている。・・・これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる。

 伊能忠敬を中心人物として扱った様々な作品があることにも気付かされたが、とりわけ、興味を惹かれ、ぜひ読んでみたい、観てみたい作品に次のようなものがある。

(小説)

・井上ひさし『四千万歩の男』(講談社/1992年)

(映画)

・伊能忠敬 子午線の夢(2001年 東映 監督:小野田嘉幹)

(テレビドラマ)

四千万歩の男・伊能忠敬 人生ふた山、55歳の挑戦 妻が支えた日本地図作り(2001年NHK正月時代劇) - 演:橋爪功

(漫画)

・谷口ジロー 『ふらり。』

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2。銚子

 銚子について刷り込まれていた知識とイメージは、1)日本を代表する漁港(活気がある)、2)太平洋に突き出た犬吠埼灯台。しかし、この記録をつけるに際して、アクセスしたWikipediaの「銚子」の項は、地理、歴史、風土、産業など幅広く精緻を極めた膨大な説明が記載されていて驚かされた。

 1)サイクリングの終着点が銚子駅であった。銚子漁港と銚子駅どちらも賑やかな通りや繁華街を予想していたが、開けた駅前は、北口だけで、駅前の商店街も、土曜日にもかかわらず閑散としていて、大した繁華街や飲屋街は見当たらなかった。港に立ち寄る時間的な余裕がなかったため、港の様子がわからず戻ってきてしまったのはちょっと心残りだ。人口は5万人をちょっと超えるほどの小さな市だということを初めて知った。

 駅前の昭和レトロの雰囲気がある食堂がやっと見つかって昼食を取った。アジフライ定食とイワシフライ定食とで迷ったが、後者が珍しいと感じたので、イワシフライを注文。期待を裏切らない美味しさだった。調べてみると、「・・・江戸時代を通じて銚子の漁業を代表するものはイワシ漁業であった。・・・」(Wikipedhiaから)とある。

 なお、駅前にまっすぐに伸びる商店街の一番駅に近い歩道に、「太平洋岸自転車道 起点」というモニュメントが設置されていた。あわや気が付かずに通り過ぎてしまいそうだった。太平洋岸自転車道はその名の通り太平洋沿岸を走る自転車道で、国交省が主導して、銚子から和歌山までのルートが整備されつつあるようだ。

銚子駅前にある太平洋岸自転車道起点の碑

2)犬吠埼灯台は、全国の登れる灯台16基のうちの一つだった(*)。灯台自身は、大した高さはないが、上ると、この日のように晴れていると遠望が効く。が、足がすくむ。

犬吠埼灯台

ここから1kmほど離れた丘の上にある、「地球の丸く見える丘展望台」にも立ち寄った。今回のツーリングで唯一といえるミニヒルクライムを求められた。展望台からは、360度どちらを向いても水平線と地平線が見える。そのため、大袈裟でなく、名前の通り”地球は丸い”という実感が湧いてくる。こんな場所は、いまだかつて体験したことはなかった。

”地球は丸い”

*2023年3月の沖縄先島諸島ツーリングで訪れた宮古島東南端にある平安名埼(へんなさき)灯台は、日本最南端の登れる灯台の一つだったことに気付かされた。

以上

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